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SSラツィオ

《正式名称》 Societa Sportiva Lazio
《ユニフォームカラー》 水色/白

【本拠地】 ローマ
【創立】 1900年
【スタジアム】 オリンピコ
【スタジアム収容人数】 80,558人

【国内タイトル】 国内リーグ:2回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:2回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:1回、欧州スーパーカップ:1回
【過去の所属選手】 シルビオ・ピオラ、キナーリア、シニョーリ、ネスタ、ロベルト・マンチーニ

【現在の会長】 クラウディオ・ロティート
【現在の監督】 デリオ・ロッシ
【現在の所属選手】 ディ・カーニオ、ペルッツィ、リベラーニ、オッド、ザウリ

【昨季の成績】 国内リーグ10位

 SSラツィオはイタリアの首都ローマでASローマと人気を二分する名門クラブであり、近年の躍進により昨今は国内でも指折りの強豪として認知されるようになった。“ラツィオ”という州名を冠したチーム名の影響からか、市内よりもローマ近郊においてより多くの支持を得ている。逆に言えば、ローマの中心部ではASローマが圧倒的な人気を誇っているということ。
 一般的に、ASローマが大衆のクラブであるのに対して、SSラツィオのほうは過激なサポーターを抱える右寄りのクラブだといわれている。これについては、ファン層全体が思想的に偏っているというより、ウルトラスと呼ばれる一部のサポーター集団が目立ち過ぎていることに起因するのかもしれない。彼らには人種差別やファシスト関連の話題が少なくなく、他のクラブ以上にあまり褒められない一面が多いというのも事実だろう。
 ホームスタジアムはASローマとオリンピコを共用していて、両者がそこでぶつかり合うローマ・ダービーは国内有数のビッグゲームとして知られている。ラツィアーレは自分たちがライバルより27年も前に創立していることを、ロマニスタのほうはいくらか先を行くタイトルの数をそれぞれ誇るのだろう。大きな注目を集める両雄の対戦だが、近年の成績ではASローマに分があるようだ。

 ユニフォームカラーに因んだ愛称“ビアンコチェレスティ(白と水色)”で知られるSSラツィオは、100年以上の歴史を誇り、現在ではいくもの輝かしいトロフィーを抱えている。国内外で獲得した主要タイトルの数は合計10個。しかし、それらのうちのほとんどは1990年代後半に得たものだ。彼らが1980年代以前に勝ち取ったタイトルは、1958年のコパ・イタリア、1974年のスクデット、この2つだけである。
 SSラツィオの長いクラブ史を遡るとき、1990年代から現在に至るまでのものと、それ以前のものとは区別して理解したほうがいいのかもしれない。前者が、1992年にセルジオ・クラニョッティが会長へ就任して以降、多くのスター選手を補強しセリエAで確固たる地位を築いてきたビッグクラブであるなら、後者は、創立以降のタイトルの数(2つ)がセリエB降格回数(5回)を下回っていた凡庸なクラブであろう。そして、実際のところ、ビアンコチェレスティは後者の役回りを演じていた時間のほうがはるかに長い。

 1900年1月9日、SSラツィオの前身となる「ソシエタ・ポデスティカ・ラツィオ(ラツィオ競歩協会)」はイタリア人将校ルイジ・ビジアレッリらにより設立された。州名でもある「Lazio」とはラテン語「Latium」(“広い”という意味)を語源としている。1902年にはサッカーの公式戦も記録しているが、あくまで“陸上競技の総合クラブ”としてスタートし、現在34種目のスポーツセクションを抱える欧州有数の総合スポーツクラブになったのも必然だといえよう。彼らは初めから“ローマ市内のサッカークラブ”ではなかったのだ。
 チームカラーである水色と白はオリンピック発祥の地であるギリシャ国旗に由来しているとのこと。また、クラブのエンブレムには、広い領土を有した古代ローマ軍のシンボルである鷲を採用したようだ。これはラツィオ州の紋章などにも見られるものである。
 現在、ファン層はローマ市外のラツィオ州全域だけでなく、隣接する各州にまで及んでいるといわれ、こういった面でも創立当初に掲げた信念が貫かれていると考えられるだろう。

 長い伝統を誇るSSラツィオだが、イタリアサッカー界ではなかなか特筆すべき成績を挙げることができなかった。初タイトルは創立から50年以上経った1958年の国内カップ優勝で、リーグを制するにはさらにそれから16年間も待たなければならない。1974年のリーグ優勝後も1部に定着し続けるに至らず、SSラツィオが最後に2部から昇格したのは1988年のことである。クラブ史の中で唯一、黄金期と呼べる時代が存在するならば、それは疑いなく1990年代後半であり、それ以前のチームは程度の差こそあれ、2部落ちすることも珍しくない中堅クラブであり続けていた。

 SSラツィオが初めて国内屈指のスター選手を擁したのは1930年代から1940年代にかけての約9年間である。代表で34試合に出場し30得点を記録した伝説の点取り屋シルビオ・ピオラは、クラブでも多くのゴールを量産し、イタリアサッカー史にその名を刻んだ。一見細身ながら背が高く強靭だったピオラは、1934年に加入し1943年にチームを去るまでの期間、合計143得点を挙げ、2度のリーグ得点王に輝いている。ずば抜けた実力を有する名手の存在はSSラツィオを以前より人気のあるクラブにはしたが、彼の活躍をもってしても、チームがイタリアリーグの頂上に登りつくことはなかった。

 タイトルに縁のなかったビアンコチェレスティが最初にトロフィーを掲げたのは1950年代後半。1956年に国内リーグ4位、1957年に国内リーグ3位になり周囲を驚かすと、翌1958年には国内カップで念願となる初タイトルを獲得したのだった。優勝メンバーで最も有名な人物はおそらく監督をしていたフルビオ・ベルナルディーニだろう。ローマ生まれの彼はSSラツィオで育ったが、移籍したASローマのほうで頭角を現し、長く現役生活を送った。逆に、監督としてはまず後者を率いるが、このときはすぐに解任される。それからフィレンツェでの成功を経て、再び首都へ戻ってきたのが、ビアンコチェレスティにとって初タイトル獲得シーズンとなる1957-58であった。

 SSラツィオに2回目の歓喜が訪れたのは1974年のこと。初タイトルから16年後の栄冠だったが、1958年から1974年までのチームは決して順風満帆な道のりを歩んできたわけではない。むしろその逆だろう。1958年に国内カップで優勝したが、そのシーズンの国内リーグでは15位まで順位を落としていて、以降も二桁順位のシーズンが続く。1960年代に入るとチーム状況はさらに悪化し、セリエBに降格すること2度。1958年のタイトルはもう遠い過去のものになりつつあった。ラツィアーレたちが明るさを取り戻したのは1970年代初頭になってからである。

 苦難の1960年代を終えた直後の1971年に再び2部へ降格したチームが、昇格した1972-73シーズンにリーグ3位になったことは、予期せぬ旋風以外の何物でもなかった。しかし、マエステッリ監督の下、クラブ随一のアイドル選手である“ロング・ジョン”ことジョルジオ・キナーリアを軸に良選手を多く揃えた新しいSSラツィオは、その勢いを止める気配のないまま快進撃を続けていき、翌1973-74シーズンには悲願のリーグ優勝まで成し遂げる。ウェールズ生まれだった異色のイタリア代表FWキナーリアは、このシーズンに数多くの印象的なゴールを挙げ、リーグの得点王にも輝いた。彼がラツィアーレから愛されたことは言うまでもない。

 リーグ制覇の翌シーズンに4位となった以外、良くも悪くも目立った成績を残さないまま、クラブは1970代を終える。キナーリアは1976年に北米リーグへ移籍し、そちらでも素晴らしい活躍をした。一方、彼に代わってエースになったジョルダーノは1979年にセリエAの得点王に輝いている。そのシーズンのチームは8位だった。
 1970年代後半が無難、または平凡であるなら、1980年代は苦境の極みと表現してもいい。ちょうど1980年に2部降格が決まると、八百長スキャンダルなどもあり、結局10シーズンのうち6シーズンをセリエBで過ごした。この暗黒の時代を抜け出す契機となったのは1988年。ジャンマルコ・カレッリが会長に就任し、財政面を強化したことで、セリエAに定着できるクラブへと変化していく。しかし、SSラツィオがタイトルを争えるようなクラブになるまでにはもう少し待つ必要があった。

 ライバルクラブであるASローマの1990年代から現在に至るまでを象徴する人物は二人いる。会長のセンシとキャプテンのトッティだ。一方、同時期のSSラツィオも同じように二人の人物で形容することができる。しかし、正確にいうと、SSラツィオのほうは1990年代から“現在に至るまで”ではなく“2000年代初頭まで”と期間を区切らなければならない。
 1992年にクラブの会長へ就任したセルジオ・クラニョッティは抜群のフロントワークでチームのレベルを押し上げ、地元出身の生え抜きDFであるアレッサンドロ・ネスタは1994年にセリエAへデビューして以降、バックラインからチームを支え続けた。彼らの登場と共にビアンコチェレスティは興隆し、2002年に彼らが去ったことでクラブの黄金期も幕を閉じたといえる。
 気性が激しく、いわゆる資産家タイプのセンシ会長に対して、クラニョッティ会長は典型的な成功者タイプであり態度もクールだった。事あるごとに子供っぽい言動で注目を浴びるトッティだが、ネスタのほうはいつも大人しい。両クラブを象徴する彼らはどこまでも対照的であり、そういった側面も“永遠の都”ローマのサッカーを盛り上げる一因となったのだろう。
 実質的にリーグタイトルが首都にとどまるのは1999-00、2000-01の2シーズンに過ぎない。しかし、自分たちの応援するクラブが、それぞれのポジションで国内最高とされる選手を輩出し、さらには彼らをキャプテンに据えた我がチームがリーグの主役を演じているのだから、ローマの人々にとって、至福の時代だったはずである。とりわけ、ラツィアーレの記憶の中では今でも、クラブ史における最良のチームとして生き続けいているに違いない。

 クラニョッティ会長下のチームは指揮した監督によって大きく3つの時期に分類することができる。1992~1997年が第1期(ゾフとゼーマン)、1997~2001年1月が第2期(エリクソン)、2001年1月~2002年12月が第3期(ゾフとザッケローニ)。
 タイトル獲得は第2期に集中していて、その前の第1期はいわば優勝を争うための準備期間だといえる。1992年にクラブを買収したクラニョッティは以後、チームへ膨大な資金を注入していった。初年度に大補強を行い、それまでリーグの中位を争うクラブだったSSラツィオへ、イングランド代表ガスコイン(92~95所属)、オランダ代表ヴィンター(92~96所属)、イタリア代表のシニョーリ(92~97所属)、フゼール(92~98所属)といった面々を連れてくる。中でもシニョーリは在籍5シーズンで3度のリーグ得点王に輝くなど、クラニョッティ第1期のチームを象徴するアイドル選手となった。すでにチームはFWリードレ(90~93所属)、MFドル(91~93所属)といったドイツ代表選手を抱えていたが、彼らは翌年に放出されている。

 貪欲なクラニョッティは、92-93を5位というまずまずの成績で終えたチームに、さらなる改革を施した。クロアチア代表FWボクシッチ(93~96、97~00所属)、イタリア代表のGKマルケジャーニ(93~03所属)、FWカシラギ(93~98所属)、ディ・マテオ(93~96所属)らを加えた93-94は前年より順位を一つ上げ4位になっている。
 チームは上向いていたが、この93-94をもって監督をゾフからゼーマンに替えた。ゼーマンは94-95(2位)、95-96(3位)、96-97途中(結果は4位)まで指揮を執り、大きな補強をせずにチームを熟成させることで、クラブを上位へ定着させている。タイトルまでは手が届かなかったが、ネスタがスタメンに定着したのもこの頃だった。ちなみに、ゾフは後にもゼーマンやエリクソンが退任した穴埋めとしてクラブへ尽力している。

 97-98シーズンを迎えるにあたって、機は熟していると判断したクラニョッティは、再び大掛かりな補強を行った。サンプドリアからスベン・ゴラン・エリクソン監督を招聘し、クラブの象徴であったFWマンチーニまで獲得する。しかし代償としてラツィアーレは最愛のエースFWシニョーリを失ったのだった。これは疑いなくクラニョッティが打って出た大博打である。
 エリクソンのSSラツィオは、マンチーニ(97~00所属)が前線でタクトを振るい、中盤ではネドベド(96~01所属)やアルメイダ(97~00所属)が走り回った。最終ラインを構えたファバッリ(92~04所属)、ネグロ(93~05所属)、ネスタ(93~02所属)、パンカロ(97~03所属)は以降も長くチームを支えていくお馴染みメンバーである。
 早急にクラニョッティの期待へ応えなければならなかった97-98のチームは、まずコパ・イタリア優勝、UEFAカップ決勝進出という成果をあげる。国内リーグの順位は7位に後退したが、24年ぶりのタイトル獲得に加え、欧州カップでも鮮烈な印象を残せたことは賞賛に値するだろう。
 こうしてクラニョッティ第2期のチームは無事に幕を開けた。と同時に、1998年はSSラツィオがイタリアで初めて株式上場するサッカークラブになった年でもある。経済界でその手腕を高く評価されているクラニョッティは、かねてからSSラツィオの株を上場する機会を窺っていたといわれる。そして彼はインテルミラノとの対戦となったUEFAカップ決勝当日を選択したのだった。試合には負けたが、株価はすぐに上昇していった。クラブにはそれまで以上に資金が流入していくことになる。

 98-99シーズン前、クラニョッティは株式上場で得た資金を元手に大型補強を敢行した。前線には1998年W杯フランス大会で活躍したイタリア代表ビエリ(98~99所属)とチリ代表サラス(98~01所属)、中盤にはポルトガル代表セルジオ・コンセイソン(98~00、03~04所属)やユーゴスラビア代表スタンコビッチ(98~04所属)を加え、最終ラインにはサンプドリア時代のエリクソンの愛弟子であるユーゴスラビア代表ミハイロビッチ(98~04所属)を獲得。そして磐石のチームは、国内スーパーカップで優勝したのを皮切りに快進撃を続け、惜しくもスクデットは逃したものの、国内リーグ2位、欧州カップウィナーズカップ優勝という結果を残す。
 豪華メンバーを擁し、欧州でも有数の強豪に位置付けられるまでになったビアンコチェレスティが実は20年以上も国内でリーグ優勝していない、などとは、国外の人間なら誰も思わなかっただろう。しかし、いくら伝統のないクラブだとはいえ、国内リーグでの試合内容を観れば、念願のタイトルにもう半分手が届いているというのも明らかだった。エリクソンのSSラツィオが98-99のセリエAで稼いだ勝ち点は上から僅かに2番目だったが、彼らより優れたサッカーを披露したチームとなると一つも見当たらなかったのである。

 99-00シーズンに、クラニョッティ第2期、つまりエリクソンのSSラツィオはとうとう絶頂を迎えた。最終的にビアンコチェレスティは国内リーグを制覇するのだが、これはローマ以南のクラブにとってはマラドーナのナポリ(1990年)以来10年ぶり、首都のクラブにとってはファルカンやコンティのASローマ(1983年)以来17年ぶり、そしてSSラツィオにとってはキナーリアらがいた初優勝(1974年)以来26年ぶりの快挙である。
 内容ではリードしていても、やはり優勝経験の浅いクラブがリーグを制するのは難しい。このシーズンも最終節での逆転優勝という、劇的ではあるがその道のりは相当に険しいものだった。サンプドリアを優勝に導いたことのあるマンチーニの経験が大きな役割を果たしたことは言うまでもない。このカリスマがチームにもたらしたのは、おそらく優勝を欲する強い意志と、それに一丸となって向かっていく団結力だったのはなかろうか。

 99-00のチームは、意外にも主力に多くの新加入選手を有していた。と同時に、前年にエースを務めていたビエリはもういない。DFラインや中盤のネドベドといった古株もいたが、司令塔のベロン(99~01所属)や、後半戦に多くの貴重なゴールをマークしたシメオネ(99~03所属)、様々なポジションを担ったセンシーニ(99~00所属)らは、いずれも新参者である。加えて、エリクソンは固定メンバーを決めないターンオーバー制を採用していたので、それこそ試合によっては昨季のチームオーダーからは予想もつかないほどの変化を見せることも珍しくなかった。
 しかし、睨みを効かすカリスマFW(この頃になるとベンチを暖める時間が長くなっていた)の存在や、同国選手(主にアルゼンチン)の多さが好影響をもたらしたのだろうか、ビアンコチェレスティはシーズンを通して目まぐるしいメンバー変更を繰り返しながらも、チームとしては纏まり、目標とする一つのサッカーを演出して頂点まで辿り着いたのである。
 普通なら好成績を残したチームは弄らずに少しの変化を与える程度にとどめるというのがサッカー界の定石だが、経済界出身のクラニョッティは違う考え方を持っていたようだ。彼は、自分が買収したクラブの価値を高め、クラブの株価を上げていったのと同様の手法により、獲得した選手の価値が上がると、ためらいもなくその選手を高値で放出している。ベロンやシメヨネら多くの選手を獲得できたのは、ビエリを高額で売却することができたからこそであった。
 クラニョッティ、エリクソン、そして多くの選手たちによって導かれた輝かしい99-00は、欧州スーパーカップ優勝、コパ・イタリア優勝、欧州CLベスト8、セリエA優勝という素晴らしい戦績で記憶されることになる。この2000年は、SSラツィオというクラブが誕生して、ちょうど100周年にあたる記念すべき節目でもあった。これ以上望めない時間がイタリアの首都(正確にその半分)を覆いつくしていたに違いない。

 新しい世紀を築くべく挑んだ2000-01は、悪くないスタートだった。アルゼンチン代表FWクレスポ(00~02所属)とその相方であるクラウディオ・ロペス(00~04所属)や、イタリア代表MFディノ・バッジョ(00~03所属)、GKペルッツィ(00~所属中)などの実力者を加え、シーズン初めにはイタリアスーパーカップのタイトルも獲っている。最終的には国内リーグで3位、欧州CLでは2次L進出にとどまったが、成績的にも、戦力的にも、内容的にも、以降の低迷を予見できるほど悪いシーズンではなかったといっていい。

 しかし、クラニョッティがいくつかの落とし穴に気付いていなかったであろうことも否めない。一つ目は、このシーズンのチームが前年のチームほど纏まりを見せなかったこと。年齢の問題で勇退したマンチーニはもうベンチにいなかった。
 二つ目は、怪我人の多発や唯一の右サイドMFだったコンセイソンの放出などにより、必ずしもバランスの取れたメンバーが揃わなかったこと。実際、怪我人の復帰や、右サイドMFであるポボルスキーの緊急補強などにより調整を施した後半戦のチームは、リーグ随一の強さを見せていた。
 三つ目は自クラブを過大評価してしまったこと。これが一番大きい。名将エリクソンの存在はチームの基盤であった。しかし、給料でも名誉でもSSラツィオを凌ぐイングランド代表監督(外国人としては初)の誘いには勝てず、彼はシーズン半ばにしてクラブを去っている。
 シーズン途中に監督を替え、国内でタイトルが獲れそうになく、欧州CLでも目立った成績を残せない、となれば、市場におけるクラブの価値は落ちていくのも必然だろう。この頃のSSラツィオは強かったが、決してユベントス、ACミラン、インテルミラノのような国を代表する名門クラブではなかったのだ。1990年代後半に猛スピードで階段を駆け上っていった首都のクラブは、それと同じくらいか、もしくはそれ以上のスピードで、低迷の一途を辿ることになる。

 2001-02シーズン開幕前、財政的なバランスを取りたかったクラニョッティは、チームで最も利益が出るであろう4選手のうち、少なくとも2人を売却しなければならなかった。出されたのはネドベドとベロンで、残ったのはネスタとクレスポである。主力の放出は株価に悪影響を及ぼすが、致し方のいないことだった。
 とはいえ、この時点でクラニョッティはまだ諦めていたわけではない。代役としてスペイン代表メンディエタ(01~02所属)、オランダ代表スタム(01~04所属)、さらにはイタリア代表のフィオーレ(01~04所属)、ジャンニケッダ(01~05所属)、リベラーニ(01~現所属)まで加え、ゾフ監督の下でチームが再生してくれることを期待した。
 しかし前述の通り、もうチームにはマンチーニもエリクソンもいない。目玉選手であるメンディエタはスペイン時代(右サイド)とは違うポジション(中央)で起用されたが、最後まで全く馴染まなかった。このシーズンのビアンコチェレスティは、迷走する強豪クラブを絵に描いたような不甲斐無いパフォーマンスに終始し、完全崩壊へと向かっていく。財政難で行き詰ったクラブは、とうとうお金に代えられないものまで手放さずを得なくなったのだった。

 2002-03シーズン前の移籍マーケットが閉まるまで後少しというときに、クラニョッティは聡明なラツィアーレへ彼らの疑念が間違っていなかったことを告げる。ネスタとクレスポは売却されたのだ。それも相手は国内のライバルクラブである。北のクラブが仕組んだらしき謀略(SSラツィオは突如として国外のクラブへ選手を売却できなくなった)により、クラニョッティには選択肢がなかった、ということを差し引いても、それは許しがたいことだった。最後の仕事を終えた元名会長は、2002年12月、多くの非難と怒号に包まれてクラブを去っている。こうしてクラニョッティとネスタのSSラツィオは幕を閉じたのだった。

 周囲の悲観とは裏腹に、監督として戻ってきたマンチーニ率いる02-03のチームは予想より悪くない成績(4位)を残す。しかし、これは一時的なものに過ぎず、次の03-04には再び順位を落とし(6位)、続く04-05に早くもその数字は近年のラツィアーレが経験したことない二桁(91-92以来)へ突入していった。
 所属するメンバーを眺めれば、05-06シーズンのチームにリーグ優勝を期待するのはナンセンスだと容易に想像が付く。かつてのように北のビッグクラブが羨むようなスター選手はもう存在しない。
 少々非現実的な話ではあるが、アブラモビッチのようなオーナーが登場しクラブを買い取れば、1年かそこらでまた多くのスター選手を買い集められる可能性もある。しかし、ネスタのような生え抜きのリーダーは、1年どころか10年かけても、そう簡単に育て上げられないだろう。一方、現在のプリマベーラの中に、そういった才能を持った子供が隠れている可能性もなくはない。

 イタリアではよくサッカーにおける現実と理想は相反しているようにいわれることがあるが、おそらくそれは間違っている。少なくともラツィアーレにとって、1990年代後半のSSラツィオでは、現実(クラニョッティと彼が連れてきた外国人選手たち)と理想(地元で生れ育ったキャプテンのネスタ)が共存していた。
 現在、ファンは現実の厳しさ、理想への遠さに辟易しているかもしれない。しかし、彼らが他のクラブに乗り換えることはないだろう。喜んで地元のクラブに帰ってきた37歳の老FWが形振り構わず演じてみせる愚かで愛らしいパフォーマンスにより、空腹を満たさなければならない時代もあるのだ、ということを彼らは知っているからである。