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サンプドリア

《正式名称》 Sampdoria Unione Calcio
《ユニフォームカラー》 青/白

【本拠地】 ジェノバ
【創立】 1946年
【スタジアム】 ルイジ・フェラリス
【スタジアム収容人数】 40,117人

【国内タイトル】 国内リーグ:1回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の所属選手】 ロベルト・マンチーニ、ビエルコウッド、ビアリ、パリュウカ、トニーニョ・セレーゾ

【現在の会長】 リカルド・ガローネ
【現在の監督】 ワルテル・ノベッリーニ
【現在の所属選手】 ボナッツォーリ、フラーキ、ディアナ、クリスティアーノ・ゼノーニ、アントニオーリ

【昨季の成績】 国内リーグ5位

 サンプドリアはイタリア北部の港湾都市ジェノバに本拠を置く国内有数の強豪クラブ。愛称はユニフォームカラーに因んだ“ブルーチェルキアッティ”(青の輪)。約60年の歴史を誇るが、トリノ、ミラノ、ローマのクラブや同都市のライバルであるジェノア1893らと比較すれば、いまだ新興クラブの部類に入る。
 とりわけジェノア1893はイタリアで最も長い歴史を持つ国内随一の古豪クラブであり、その存在がサンプドリアの新しさを一層強めて見せるのかもしれない。“ジェノア”とはジェノバの英語読みで、これはミラン(ミラノの英語読み)がそう名乗っているのと同じ理由だ。英国人から伝えられたフットボール創世記のネーミングを現在も受け継いでいるということだろう。“1893”とは創立年であり、これも誇りの表れである。
 この両チームは、他のイタリアのクラブ同様にスタジアムこそルイジ・フェラリスを共用しているが、サポーターの層は二分されているといわれる。ジェノアは労働者階級に強く支持され、一方、サンプドリアは中流階級、ブルジョワ階級に人気があるようだ。両者が対戦するジェノバ・ダービーはイタリアで最も危険なダービーマッチの一つとして知られている。
 しかし昨今、ジェノア1893の低迷で、このダービーが1部リーグで観られることは少なくなっている。ジェノア1893は“カズ”こと三浦知良が所属していたので日本においてもそれなりの知名度があるが、実際、近年の実績ではサンプドリアに分があるといえよう。

 サンプドリアが創設されたのは1946年で、サンピエルダレネーゼとアンドレア・ドリアが合併して誕生した。他の強豪クラブに大きく遅れてスタートしたサンプドリアが、イタリアで確固たる地位を築き上げたのは1980年代。現在、クラブはいくつかの素晴らしいトロフィーを誇ることができるが、その多くは80年代後半~90年代前半に手にしたものである。
 栄光を掴む契機となったのは1982年だろう。まず国内一の名門ユベントスから左利きのアイルランド代表MFリアム・ブレイディを獲得。かつてアーセナルやユベントスで多くの優勝カップを掲げた有名選手が弱小クラブへ移籍したことに多くの人間が驚いた。しかし、その後、周囲をもっと驚かせたのはもう一人の左利きの天才少年のほうであった。
 1981-82シーズン、弱冠16歳でセリエAにデビューし、いきなり9得点を挙げた天才イタリア人FWは、この年にボローニャからサンプドリアへ加入し、1997年にラツィオへ去るまで、長い間その創造性溢れるプレーの数々でクラブに大きく貢献する。サンプドリアはいまだマンチーニなしでタイトルを獲得したことがない。彼が“ミスター・サンプドリア”と呼ばれるのも当然であろう。ロベルト・マンチーニ加入後、伝統のない新興クラブ・サンプドリアは一歩一歩階段を上っていくのだった。

 二人の名手を得たサンプドリアは、翌年に、1990年代のセリエAで鉄人ディフェンダーとして名を馳せたビエルコウッド(1983~94年在籍)を獲得。そして迎えた1983-84シーズン、念願のクラブ初タイトルとなるコパ・イタリア優勝を遂げる。
 このシーズンでブレイディがイングランドリーグへ復帰するが、代わりに名門リバプールからスコットランド代表MFスーネス(84~86年在籍)を補強し、さらにジャンルカ・ビアリ(84~92年在籍)という後のイタリア代表FWを加えることにも成功。特筆すべきは後者のほうだろう。マンチーニ&ビアリ、クラブ史に残る名コンビの誕生である。以後、魅惑的なファンタジスタとアクロバチックな点取り屋は抜群のコンビネーションを発揮し、サンプドリアというクラブの成長と共に自らのキャリアを築いていった。

 1986年には若きパリュウカ(1986~94年在籍)がボローニャからやって来る。と同時に、ユーゴスラビア人監督ブヤディン・ボシュコフが就任した年でもあった。すでにユーゴスラビア代表やレアル・マドリードなどを率いたことのある知将の経験は、若く将来性豊かなチームにとって大きなプラスとなり、1992年に彼がクラブを去るまでの期間、サンプドリアは黄金期を謳歌する。
 ブラジルが誇る“黄金のカルテット”の一人トニーニョ・セレーゾ(87~92年在籍)を加えた87-88シーズンに2回目となるコパ・イタリア制覇を飾ると、このタイトルを皮切りに、サンプドリアは着々と優勝カップのコレクションを増やしていった。イタリアのカップ戦王者として出場した88-89の欧州カップウィナーズカップでは決勝に進出し、このときは0-2でスペインの強豪バルセロナの前に屈するが、再びこの年のコパ・イタリアを制覇。そして前年のリベンジを果たすべく挑んだ89-90の欧州カップウィナーズカップではベルギーのアンドルレヒトを2-0で破り見事に優勝を遂げたのだった。

 国内外でのカップ戦で抜群の強さを発揮し、名門の地位を築こうとしていたサンプドリアだが、やはりイタリア屈指の強豪クラブを名乗るには足りないタイトルが一つある。それは他でもない国内リーグでの優勝、通称スクデット。
 当時のセリエAは世界最強リーグを自負していただけあり、1986年W杯を制したマラドーナ、1988年欧州選手権で母国に初のタイトルをもたらしたオランダ・トリオ、そして1990年W杯イタリア大会で優勝したドイツ・トライアングルなど、世界を代表する外国人スター選手で溢れていた。そういったライバルたち全てと同じ条件で凌ぎを削らなければならないリーグ戦における優勝は、つい数年前に初タイトルを手にしたばかりの新興クラブにとって至難の業であることはいうまでもない。しかしその時は意外にも早く訪れた。
 まだ自国開催W杯の余韻が醒めない90-91シーズンの国内リーグ戦、マンチーニとビアリのイタリア人コンビは前線で素晴らしい活躍を披露し、チーム合計57得点(全チーム中最多)のうち、二人だけで31得点を叩き出す。サンプドリアはクラブ初のセリエA優勝を遂げ、19ゴールを挙げたビアリは得点王に、そしてマンチーニはリーグMVPに輝いたのだった。二枚看板の他にも、スーパーサブのFWブランカ、右サイドのロンバルドとマンニーニ、最終ラインのビエルコウッド、守護神パリュウカらイタリア人選手を中核に据えてリーグを制したサンプドリアが、当時のセリエAで異彩を放っていたことは言うまでもない。

 続く91-92シーズンも国内スーパーカップを制して幸先良くスタートする。だが、優勝するのと同じくらい、もしくはそれ以上に連覇することは難しい。それが優勝慣れしていない新興クラブであれば尚更である。また、ヨーロッパ中の各国王者がそうであったようにサンプドリアの選手たちの気持ちも、この年は選ばれたものにしか与えられない挑戦権のほうへ向かっていた。王者のみが参加できる大会、チャンピオンズカップである。
 国内リーグでは前年の雪辱を晴らすべく首位を快走するACミランに大きく離されたが、欧州CCでのサンプドリアは順調に駒を進めていった。そして驚くことに初出場にして決勝まで登り詰めたのである。決勝戦の相手は3年前に欧州カップウィナーズカップ決勝で対戦し破れた因縁のバルセロナ。この試合は健闘するも、延長戦の末、0-1というスコアで準優勝に甘んじた。しかし、欧州CC決勝進出がクラブ史に残る輝かしい出来事であったことに変わりはない。

 1983-84シーズンのコパ・イタリア優勝から1991-92シーズンの欧州CC決勝進出まで、とんとん拍子で階段を駆け上がってきたサンプドリアだが、1992年以降は下降線を辿ることになる。91-92を国内5位で終えると、エースのビアリ、DFのビエルコウッドが揃ってユベントスに引き抜かれ、トニーニョ・セレーゾはブラジルに帰り、長くクラブを指揮してきたボシュコフもASローマへと去っていった。
 スウェーデン人のスベン・ゴラン・エリクソン監督を招聘した92-93のチームは、マンチーニが孤軍奮闘するも、国内7位に終わる。93-94シーズンはオランダの天才ルート・フリット、イングランド代表MFデビッド・プラット(共に93~95年在籍)という二人の名手を加え、復調し、国内リーグ3位、コパ・イタリア優勝という好成績を残した。
 しかし翌94-95は国内8位、欧州カップウィナーズカップもベスト4で敗退し、フリットとプラットが去る。95-96は新加入のイタリア人FWキエーザが22得点を挙げたが、チームは再び8位。96-97は、2部にいるジェノア1893から引き抜いたモンテッラが22ゴールをマークし、チームも5位になったが、シーズン後には、エリクソン監督だけでなくマンチーニまでもがラツィオへ去ってしまう。“ミスター・サンプドリア”が最後のシーズンに残した数字、33試合15得点はいずれも自己最高のものであった。

 支柱を失ったサンプドリアは、偉大なる監督ボシュコフを呼び戻し、97-98シーズンを何とか国内9位という成績で持ちこたえる。だが、この頃の主力だったミハイロビッチやベロンがエリクソンを追うようにしてラツィオへ、さらにはボシュコフをも失った98-99シーズン、サンプドリアはとうとう完全崩壊し、16位でセリエB降格という最悪な結果に行き着いてしまうのだった。
 1999年から4シーズンを2部にて過ごしたサンプドリアは、2002-03シーズンにセリエBで2位となり、念願のセリエA復帰を果たす。迎えた03-04シーズンは8位となり、まずまずの成績を残した。
 04-05シーズンには5位まで順位を上げ、久々の欧州カップ出場権(UEFAカップ)も獲得。かつて強豪の一角に数えられた新興クラブは、今か今かと復権の機会を窺っている。