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インテル・ミラノ

《正式名称》 Internazionale Milano Football Club
《ユニフォームカラー》 青/黒

【本拠地】 ミラノ
【創立】 1908年
【スタジアム】 ジョゼッペ・メアッツァ (サン・シーロ)
【スタジアム収容人数】 83,679人

【国内タイトル】 国内リーグ:13回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:2回
【国際タイトル】 欧州CL:2回、UEFAカップ:3回、インターコンチネンタルカップ:2回
【過去の所属選手】 ジョゼッペ・メアッツァ、ベニート・ロレンツィ、ルイス・スアレス、ジャシント・ファケッティ、サンドロ・マッツォーラ

【現在の会長】 ジャシント・ファケッティ
【現在の監督】 ロベルト・マンチーニ
【現在の所属選手】 アドリアーノ、フィーゴ、ベロン、カンビアッソ、サネッティ

【昨季の成績】 国内リーグ3位、国内カップ優勝

 イタリア北部のミラノに本拠を置く国内屈指の強豪クラブ。ユニフォームは青と黒の縦縞で、胸ロゴのメインスポンサー“PIRELLI(ピレッリ)”はイタリアを代表するタイヤメーカー。クラブの愛称は最も有名なものでユニフォームカラーの“ネッラズーリ(黒・青)”、ロゴやマスコットとしてチームのシンボル的な役割を担っている“ビッシオーネ(大蛇)”、また、愛するクラブを“恋人”にみたてた“La Benramata(ラ・ベネアマータ)”というものもある。ちなみに、シンボルマークの“Bissione(ビッシオーネ)”は13~15世紀にかけてミラノを支配していたビスコンティ家の紋章である大蛇に由来するもので、これはアルファ・ロメオもフロントグリルの一部に使用している。

 国内ではユベントス、ACミランに次ぐ人気クラブ。地元ミラノだけにとどまらずイタリア各地に“インテリスタ”と呼ばれるサポーターを数多く抱え、現在ではその範囲を世界へと広げつつある。
 欧州でも指折りの経営規模を誇り、常に多くのスター選手を抱えていることで知られる。また、100年近いクラブ史において、すでに様々なタイトルを獲得しており、その実績面から判断しても世界有数のビッグクラブだといえよう。イタリアで一度も1部リーグから降格したことのないクラブはインテルとユベントスの二つだけしかなく、このことから両者の対戦にはナショナル・ダービー(“イタリア・デルビー”)の称号が与えられている。
 とはいえ、最大のライバルが同都市のACミランであることに変わりはなく、サポーターの熱が最高潮に達するゲームも、やはりミラノ・デルビーだろう。両チームのファン層には、富裕階級のインテル、労働者階級のACミランという構図があったといわれるが、現在、明確な境界線はなく、彼らはミラノに混在しているようだ。スタジアムはミラノ市からレンタルする形で長く共用していて、対戦前にフロント同士が罵り合うこともないが、サポーターのライバル意識だけはいまだ強烈である。

 ホームのスタディオ・ジョゼッペ・メアッツァ(正式名称)は、元々ACミランの持ち物であり、名称もサン・シーロであった。しかし、ACミランがミラノ市へ売却して以降は共用するようになり、そのミラノ市が、1979年に地元出身の伝説的な名手ジョゼッペ・メアッツァが亡くなったことを受けて、翌年に名称を変更し、現在に至る。メアッツァはミラノに生まれ、インテルで長く活躍し、晩年にはACミランにも所属したイタリア代表史上屈指の国民的スター選手だが、育ちも引退もインテルであったため、今でもミランサポーターは、かつての名称サン・シーロと呼ぶようである。
 ちなみに、1926年に完成したサン・シーロの着工を提案したのは、現インテルのメインスポンサー“PIRELLI”創業者であるピエロ・ピレッリだといわれ、彼はACミランの創設に関わった人物としても知られている。何かと交錯するインテルとACミランだが、これほど様々なエピソードで彩られたライバル同士も珍しいのではなかろうか。

 インテルが創設されたのは1908年で、ACミランとの因縁関係が始まったのもこのときだった。というのも、ACミランの前身である「ミラン・アンド・クリケット・フットボール・クラブ(Milan Cricket and Football Club)」から分離独立してできた「インテルナツィオナーレ(Internazionale)」こそが、今のインテルなのだから……。
 後者が誕生した原因は外国人選手の加入を巡る前者のクラブ内における対立で、その結果、外国人補強に対して肯定的だった少数派のグループは「国際的」という名前のクラブを設立し、初代キャプテンにスイス人マンキティを据えたのだった。今でも正式名称にACミランはカルチョを使用しているのに対して、インテルはフットボールを使用しているというのが両者の意思表示なのであろう。

 インテルナツィオナーレとしてミラノに産声を上げてからわずか2年後の1909-10シーズンに早くもイタリアリーグを初制覇すると、1919-20に2度目、1929-30には3度目の優勝を遂げている。しかし、年代的な問題から資料は限られていて、また、時代的な背景により、当時の状況について語られる言葉には暗い話題も少なくない。
 1914-15シーズン途中にヨーロッパは第一次世界大戦へと突入し、イタリアリーグも中断を余儀なくされる。再開された1919-20シーズン、インテルナツィオナーレは見事に2度目の優勝を飾るわけだが、そこには就任初年度にクラブ史上初のリーグ優勝へと導き、以後もクラブを率いていたビルジリオ・フォサッティ監督の姿はなかった。彼は戦渦で命を失っていたのである。

 続く1920~40年代のイタリアはファシズムの時代。ムッソリーニ政権下で多大なる恩恵を被ったのがイタリア代表なら、不要な弾圧に晒されたのがインテルであった。ムッソリーニのファシスト党は1922年に政権を握り、1926年には一党独裁を確立。ファシズムが掲げるものとは国家主義・民族主義であり、それは外国人の排斥である。そんな中、“国際的”となるチーム名で伝統的に外国人選手へ寛容な態度を示し続けてきたインテルナツィオナーレが政府から目の仇にされたというのは言うまでもないことだろう。1928年にはファシスト政権の圧力により「ミラネーゼ・ユニオン・スポルティーバ(Milanese Unione Sportiva)」と強制的に合併させられ、クラブ名を「アンブロシアーナ・インテル(Ambrosiana Inter)」に、そして青黒のユニフォームも白地に赤十字という配色(ミラノ市の紋章より採用)に変更させられてしまう。1929-30シーズンにインテルが3度目の優勝を果たしたときには、すでにインテルナツィオナーレではなくアンブロシアーナであった。サポーターたちの抗議でユニフォームこそ数年後に元の青黒へと戻るがアンブロシアーナの名前は1945年、つまり第二次世界大戦が終結しファシスト党が解体するときまで続くことになる。

 もちろんこの期間がインテルにとって悲しい出来事ばかりで埋め尽くされていたわけではない。1927年9月25日に弱冠17歳でデビューした神童によって、以後の約11年間、ファンは彼の素晴らしいプレーに歓喜し、チームもいくつかのトロフィーを手にすることができた。
 現在もスタジアムにその名を残す英雄は最初の1927-28シーズンに11個のゴールを挙げると、1929-30にはチームをリーグ優勝へと導き、自身も31ゴールで得点王に輝いている。メアッツァは1935-36にもリーグのトップスコアラーとなり、1937-38には再びスクデットと得点王のダブルタイトルを手にすることに成功した。晩年は怪我に苦しみ、1938-39に国内カップの初制覇へ貢献すると、翌1939-40はリーグ戦のピッチに一度も立つことのないまま、シーズン終了後に隣のライバル・クラブへ去ることとなる。しかし、彼は疑いなくインテルの象徴であり、実際、1946-47にはチームへ復帰し、1シーズンだけプレーして引退するのだった。

 すでにメアッツァを欠いていたチームはメアッツァ不在の1939-40シーズンにも優勝を果たしたが、このとき、ちょうどイタリアがナチス・ドイツと同盟を結ぶなど、サッカーも戦争の影響を免れなくなってくる。1943年になるとリーグは中断し、どのクラブも1945年の戦争終結を待った。
 1945-46からリーグは再開され、クラブは約17年ぶりに“インテルナツィオナーレ”と名乗ることを許される。サポーターが心待ちにした瞬間だったに違いない。次の望みは、伝統のチーム名で久々のリーグ制覇を果たすことであったのだろうが、1940年代後半はトリノ全盛の時代で、インテリスタはもう少し待たねばならなかった。
 1950年代に入ると、アルフレード・フォーニ監督の下、メアッツァ以来のアイドルだった“ベレーノ(毒)”ことベニート・ロレンツィやスウェーデン人MFスコグルンド、ハンガリーのステファノ・ニエルスらを擁したチームが、国内リーグで連覇(1952-53、1953-54)を成し遂げる。このように偉大な選手を有し、タイトルを獲り、国内有数の地位を固めていったインテルだが、今なおクラブ史に歴然と輝く本当の栄光が訪れたのは1960年代だろう。

 1955年、マッシモの父であるアンジェロ・モラッティが会長に就任する。マッシモとは現在、インテルのオーナーを務めているマッシモ・モラッティだ。アンジェロは一代で莫大な富を築いた石油商で、クラブを買い取ってからは巨額の資産を投入していく。一つ目の投資は1960年、スペインのバルセロナを率いて、ディステファノ擁するレアル・マドリードを相手に国内外で多くのタイトルを獲得していたアルゼンチン人の名将エレニオ・エレーラ。そして二つ目の投資は1961年、同じくスペインのバルセロナで1960年度の欧州最優秀選手に選出されていたスペイン人MFルイス・スアレス。
 イタリアの伝統的な守備戦術である“カテナチオ”を完成させた人物として知られる“マーゴ(魔術師)”ことエレーラが監督に就任した最初のシーズンである1960-61に、インテルは国内リーグ3位、欧州フェアーズカップ準決勝進出というまずまずの好成績を収める。当時のチームにはすでにマリオ・コルソという天才肌のイタリア人MFがいたが、翌年、エレーラはバルセロナ時代の教え子で、後にインテル史上最高の10番と評されることになるスアレスの獲得をフロントに強く要請する。アンジェロはそれに答える形で、当時、世界で史上最高額となる移籍金をバルセロナへ支払うのだった。
 翌1961-62シーズン、鳴り物入りでやってきたスアレスは中盤の指揮官でありながら期待通りの素晴らしい活躍(国内リーグ27試合11得点、欧州カップ5試合4得点)をみせ、チームは前年より一つ順位を上げる。(国内リーグ2位、欧州フェアーズカップ準々決勝進出)また、イタリア代表歴代最高のキャプテンにして世界のサッカー史にもその名を残す伝説的な左SBジャシント・ファケッティが、デビュー2年目でスタメンに定着し出したのもこの頃だった。

 初めの2シーズンはタイトルに手が届かなかったエレーラのインテルだが、チーム力は着実に上がっていく。特筆すべきは、核となる選手の補強、組織の熟成、そして下部組織からの抜粋。これらが1962-63シーズンに目に見える形で開花し、チームはエレーラ監督下で初タイトルとなる国内リーグ優勝を果たす。あのディステファノにして“アルキテクト(建築家)”と言わしめた司令塔スアレスを軸に、最終ラインでピッキ、グアルネリ、ブルグニッキ、ファケッティが“カテナチオ”を形成すると、前線では左利きのテクニシャンであるコルソや新加入のブラジル人FWジャイールらが暴れた。
 そしてこのシーズンと以降の成功を語る上で、忘れてはならないのが“イル・ボッファ(口ひげ)”の愛称で親しまれた名選手サンドロ・マッツォーラの登場である。トリノの栄光を支えた伝説の人物バレンティノ・マッツォーラを父に持つこの偉大で万能なゲームメイカーは、インテルの下部組織で育ち、前年までに2試合の出場経験を積んでから、1962-63シーズンに初めて主力に名を連ねると、20歳にして23試合に出場し10得点を挙げた。後方にスアレスがいたこともあり、若い頃はトップに近いポジションでプレーし多くのゴールをマークし、晩年は中盤に下がり司令塔として活躍すると、1977年に引退するまでの間、長くインテルNo.1アイドル選手の座に君臨する。

 ディフェンディング・チャンピオンとして迎えた1963-64シーズン、さらに勢いを増したエレーラのインテルは、国内リーグこそボローニャにプレーオフで破れて2位に甘んじたが、今度は欧州で最高の栄誉であるチャンピオンズカップ優勝を遂げた。
 主要メンバーに変化はないが、カテナチオと恐れられた前述のDFラインは最高レベルに達していたといえる。また、中盤のスアレスはより深い位置に下がり、素晴らしいゲームメイクを披露した。その理由は、前線で新しいスター選手が完全にその才能を開花させたからである。1シーズン前にスタメンを掴んだばかりの若きマッツォーラは、とりわけ欧州CCで合計7ゴールを挙げ、大会得点王に名を連ねたのだった。決勝では5度の優勝を誇るレアル・マドリード相手に3-1のスコアで勝利しているが、そのうち2得点はマッツォーラのマークしたものである。
 こうして国内と欧州を制したインテルは、1960年から始まりまだヨーロッパ勢でレアル・マドリードしか獲っていないタイトル、インターコンチネンタルカップを1964年に初めてイタリアへ持ち帰るのだった。クラブ史に歴然と輝く“グランデ・インテル”の誕生である。

 世界の頂点に立ったグランデ・インテルに穴らしきものは見当たらなかったが、1964-65シーズンは、前線にスペイン人FWホアキン・ペイロらを加え、さらに強力な布陣を揃えた。そして最終的にこの年のチームは前年以上の偉業を達成する。まず国内リーグのタイトルを獲ると、次に名門ベンフィカを決勝で破り欧州CCを連覇。そして迎えたインターコンチネンタルカップでも連覇を遂げたのだった。
 全盛期を謳歌するグランデ・インテルは、1965-66に国内リーグ連覇を果たし、欧州CCでも準決勝に進出。ネッラズーリの時代はまだまだ長く続くものと思われた。しかし、次の1966-67は国内リーグで2位となり、欧州CCにおいても決勝で敗退してしまう。そして5シーズンぶりに無冠で終わったことからか、チームの歯車は徐々に狂い出すのだった。
 成績不振により1967-68をもって名将エレニオ・エレーラがクラブから去ると、チームはタイトルへ手が届かなくなり、1970年にはスアレスも退団する。とはいえイタリア代表で10番を背負うマッツォーラ、キャプテンマークを巻くファケッティらは健在で、1970-71には最後の意地を見せる形でスクデットを獲得した。しかし、あの偉大なインテルが戻ることはなく、クラブは長い低迷期へと突入するのだった。

 1970年代~80年代半ばまでのイタリアはユベントスの時代であった。インテルは1971年の優勝以後、目立った成績を残せず、またイタリアサッカー協会が外国人選手の加入を禁止していたので、スター選手を補強できないまま、コルソ、マッツォーラ、ファケッティといったレジェンドたちを失っていく。新しい世代の主力であるFWアルトベッリ、MFオリアリ、ベッカロッシ、DFジョゼッペ・バレージらを擁し、1977-78に国内カップ、1979-80に国内リーグのタイトルを獲るが、黄金時代を再現することはできなかった。
 サッカー協会が外国人選手の補強を認めていなかった1970年代とは対照的に、1980年代、特に後半のイタリアは世界を代表するスター選手で彩られる。インテルも例外ではなく、トラパットーニ監督の下、ピッチ内外で注目を集めた名GKゼンガ、キャプテンのジョゼッペ・バレージ、後に全てのカテゴリーでインテル史上最多出場記録を作ったDFベルゴミ、得点王に輝くアルド・セレーナ、攻守に活躍するMFニコラ・ベルティといったイタリア代表クラスの選手たちに、アルゼンチン代表のFWラモン・ディアス、ドイツ代表の名手たち、マテウス、ブレーメという3人の外国人選手を加えたチームは、1988-89シーズンにスクデットを獲得した。

 1989-90にはラモン・ディアスを放出し、インテリスタにして“黄金の戦車”と称されたクリンスマンを加える。1990年W杯優勝メンバーから成るドイツ・トライアングルが完成し、すぐにUEFAカップ優勝、国内リーグ3位という結果を残した。しかし、このときも黄金期を築くことはできず、クラブ内部で分裂が生まれたこともあり、1992年にドイツ・トライアングルは揃ってチームを去っている。
 彼らに代わり加わったのは“ゴールの詩人”ことウルグアイ代表FWルーベン・ソサで、以後、3シーズンに渡りチームに貢献しファンからも愛された。1993-94には二人の新加入オランダ人選手、FWベルカンプ、MFヨンクらの活躍で再びUEFAカップを制しているが、いずれの外国人選手も長く馴染むことはできず、チームも方向性を見出せない状態が続くのだった。

 1995年、グランデ・インテルを生んだ偉大なる会長アンジェロ・モラッティの実子であり、現在もオーナーを務めているマッシモ・モラッティがクラブを買い取り、会長職へ就くと、選手の出入りはさらに激しくなっていく。マッシモが会長を務めた2003-04シーズン途中までの約9年間、クラブは約5億ユーロ(現レートで約700億円)の金額を費やし、111名の選手を補強した。
 イタリア代表のロベルト・バッジョ、ビエリ、パヌッチ、ファビオ・カンナバーロ、ブラジル代表のロナウド、ロベルト・カルロス、アドリアーノ、フランス代表のジョルカエフ、ブラン、イングランド代表のインス、チリ代表のサモラーノ、ウルグアイ代表のレコバ、そしてアルゼンチン代表のサネッティ、シメオネ、アルメイダ、クレスポ、バティストゥータなど、スター選手の名前を挙げれば枚挙に暇がない。一方で、この期間にクラブが獲得したタイトルの数は1997-98シーズンのUEFAカップたった1個だったというのは本当に皮肉である。
 最初のうちはインテルを愛する姿勢や人間味溢れる言動から好意的に受け入れられていたマッシモ・モラッティだが、クラブを統括し運営していく才能には欠けていたようだ。上に並んだビッグネームのほとんどが他クラブや代表チームで優勝カップを掲げているという事実は、当時のインテルの失策を証明しているといえよう。

 2004年にマッシモ・モラッティが会長の座をファケッティに譲り、チームの運営方針も近年は徐々に変化してきている。かつてのように一人の選手へ大金を費やすことはなく、全体的なバランスを重視したチーム作りをコンセプトに置いているようだ。傾向としては、イタリア人選手の減少が挙げられ、逆に南米選手の多さは特筆に値する。スタメンのほぼ全員が南米出身選手で占められることも珍しくない。
 新シーズンは、マンチーニ監督の下、エースのブラジル代表アドリアーノ、中盤のアルゼンチン人コンビであるカンビアッソ、ベロン、長くキャプテンを務める同じアルゼンチンのサネッティといった面々に、ポルトガルが誇る2000年度の欧州最優秀選手フィーゴを加え、虎視眈々とタイトル獲得の機会を窺っている。