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ユベントス

《正式名称》 Juventus Football Club
《ユニフォームカラー》 白/黒

【本拠地】 トリノ
【創立】 1897年
【スタジアム】 デッレ・アルピ
【スタジアム収容人数】 67,229人

【国内タイトル】 国内リーグ:28回、国内カップ:9回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 欧州CL:2回、UEFAカップ:3回、欧州カップウィナーズカップ:1回、欧州スーパーカップ:2回、インターコンチネンタルカップ:2回
【過去の所属選手】 オルシ、ボニペルティ、シボリ、プラティニ、ジダン

【現在の会長】 フランツォ・スティーブンス
【現在の監督】 ファビオ・カペッロ
【現在の所属選手】 ネドベド、イブラヒモビッチ、デル・ピエーロ、テュラム、ブッフォン

【昨季の成績】 国内リーグ1位

 “イタリアの貴婦人(ラ・シニョーラ)”の愛称で親しまれている国内No.1クラブにとどまらない欧州を代表する強豪クラブの一つ。本拠地はイタリア北西部のアルプス山脈近くに位置するトリノ市で、古くから同じトリノ市に本社を置くイタリア最大の企業ファイアットの出資を受けている。とりわけファイアットでもユベントスでも名誉会長を務めていたジャンニ・アニエリの名はよく知られている。
 ファンは国内全土に及び、イタリアで最もサポーターの多いクラブである一方、地元トリノにおける人気は低く、ほとんどの市民はユベントスではなくトリノ(Torino Calcio 1906 s.p.a)を応援している。ユベントスとトリノの対戦は“トリノ・ダービー”として盛り上がりを見せるが(とりわけトリノ側)、昨今は両者の格差が開いていることもあり、セリエAで観ることができる機会も少なくなった。
 また、ユベントスとインテル・ミラノの対戦は“イタリア・ダービー”と呼ばれ、近年はこちらのほうが注目されることが多い。この2チームのみが、かつて一度も2部に降格したことのないイタリアのクラブであることから、ナショナル・ダービーの名前が付けられるようになった。

 地元サポーターの少なさという背景にアクセスの悪さやスタンドの遠さなどの諸事情も相まって、“スタディオ・デッレ・アルピ(アルプスのスタジアム)”は客の入らないスタジアムとして有名。欧州有数の人気と実績を誇るクラブであるにもかかわらず極端に集客力が低いため、近年、フロントが、所有者であるトリノ市とスタジアムの買取について話し合い、改築プランを立てているとのこと。
 というのも、スタジアムを持たずにレンタルし近所のクラブと共有するというのはイタリアで通常行われている方法であり、ユベントスは地元のライバルであるトリノと同じ場所を使用していた。同様にミラノではACミランとインテル・ミラノがミラノ市から、ローマならASローマとSSラツィオがローマ市から、それぞれレンタルする形で共用しているということである。ユベントスは、これを買い取って陸上トラックなどのないサッカー専用スタジアムへの改修や娯楽施設の増設をする計画を立てている。

 1897年にトリノの学生によって創設されたのが始まりで、ユベントスとはラテン語で“青春”を意味する。現在、ユニフォームに因んだ“ビアンコ・ネーロ(白と黒)”という愛称が、“貴婦人”と並びよく利用されているが、お馴染みのゼブラ・カラーとなったのは1903年のこと。今でもアウェイで見かけるピンク色のユニフォームが当初のホームカラーであったのだが、イングランドのノッツ・カウンティに倣い白黒へ変更したとされる。
 1898年からリーグ戦は開始されていたが、最初はジェノバの独壇場(リーグ開設7年で優勝6回)で、ユベントスが初優勝したのは1905年であった。その後も、ジェノバらがタイトルを重ねるなか、ユベントスは苦しみ、やっと1926年に2回目の優勝を遂げている。しかし数シーズン後には、クラブ史に残る黄金期に投入することとなるのであった。

 長い歴史を持ち、多くのタイトルを獲り、数々のスターを抱えてきたクラブであるため、黄金期と呼べる時期も複数存在する。その中で第一期にあたり、クラブ史上初めて、ユベントスという名前をイタリア全土へと知らしめたのがこの時代であろう。
 1928年のアムステルダム五輪で準優勝したアルゼンチン代表チームから、まず、1929年にライムンド・オルシが加入する。ユベントスはこの小柄な左ウィングの活躍で、1929-30シーズンこそ若きジョゼッぺ・メアッツァ率いるインテルの後塵を拝するが、1930-31シーズンには通算3度目の優勝を飾る。続いて1931年に再びアルゼンチンから今度は屈強なMFルイジート・モンティも加えると、チームの勢いは止まらないどころか、結局、オルシが去る1934-35シーズンまでメアッツァのインテルを全く寄せ付けず、前人未到のリーグ5連覇を達成したのだった。
 ちょうど独裁者ムッソリーニが1934年W杯イタリア大会での優勝を目論んでいたことから、オルシやモンティは帰化という形でイタリア代表へ半ば強引に引き抜かれている。それほど彼らの力が突出していたという証明だろう。当時のイタリア代表の主力には、彼らアルゼンチン勢の他にも、ゾフやオリビエリと並び称される名GKコンビなどがユベントスから名を連ねた。

 オルシ以降も1938年と1942年に単発で国内カップを制すが、何といっても1940年代はライバルのトリノがバレンティーノ・マッツォーラらを有し無類の強さを発揮していた時期であり、ユベントスにとって第二期の黄金期といえるのは後の1950~60年代前半。
 この時期も、国内だと1950年代にスウェーデンの「グレ・ノ・リ」トリオ、1960年代にジャンニ・リベラやアルタフィーニ(70年代にはユベントスにも加入)らを擁したACミランや、1960年代にルイス・スアレス、サンドロ・マッツォーラ、ファケッティらにより絶頂期にあったインテル・ミラノといった強力なライバルが存在したため、1930年代ほどのタイトルは得られていない。ディステファノのレアル・マドリードやクバラのバルセロナが席巻していた欧州カップも同様である。
 しかし、1946年から1961年まで長く活躍した初代“ゴールデンボーイ”ことFWジャンピエロ・ボニペルティ、1957年に当時世界最高額で移籍してきて1961年にはバロン・ドールも受賞したアルゼンチンの名手“カベソン(デカ頭)”ことエンリケ・オマール・シボリ、同じく1957年に加わったウェールズの伝説的ストライカー“イル・ブオン・ジガンテ(優しき巨人)”ことジョン・チャールズで形成する破壊的な攻撃トリオは、イタリア・サッカー史に強烈なインパクトを残したといえよう。
 ボニペルティ(1948年)、チャールズ(1958年)、シボリ(1960年)、三者共に得点王に輝き、チームは1950~1960年代前半までの間に5回の国内リーグ優勝と5回の国内カップ優勝を果たしたのだった。

 1960年代後半にはミラノの両雄の活躍もあり、しばらく勢いを落としたユベントスだが、1970年代には再び盛り返すことに成功する。前述の通り、1950~60年代前半のイタリアは、諸クラブが優れた外国人スターを抱えていた、と同時に、代表チーム弱体化への危惧が叫ばれた時代でもあった。この頃、実際にW杯1次GL敗退や予選敗退が続いていたので、とうとうイタリアサッカー協会は外国人選手との新規契約を禁止し、これは1970年代を通して続くこととなる。
 ユベントスの1970年代は第三期の黄金期にあたり、国内で着実にNo.1の地位を固めていった時代だといえよう。ベッテガ、ゾフ、シレア、ジャンティーレ、タルデッリ、ガウジオら多くのイタリア代表選手を有し、国内リーグ優勝5回、国内カップ優勝1回、そしてクラブ初の国際タイトルとなったUEFAカップでも優勝を成し遂げている。1968年からチームに加わり1973年まで所属したドイツ代表ヘルムート・ハーラーや、すでにイタリア国籍を取得していたブラジル人FWアルタフィーニら一部の例外を除いて、当時のユベントスは全てイタリア人選手で構成されていた。ライバルチームも同様であり、代表選手の多いユベントスが国内タイトルを独占したのはある意味で必然だったといえるかもしれない。
 しかし、長い伝統を持ち、国内随一の実績を誇るユベントスのファンが望むものは、この頃になると一つに絞られていた。他でもない、それは欧州のクラブレベルにおいて最高峰に位置する欧州チャンピオンズ・カップである。1960年代にミランとインテルが2回ずつ制しているにもかかわらず、イタリアの雄であるはずのユベントスはまだ一度も優勝していなかった。1973年には初の決勝進出を果たすが、このときはクライフを中心とした全盛期のアヤックスを前に涙を呑んでいる。

 1980年代に入っても国内での強さは相変わらずで、1976年よりクラブを率いている名将トラパットーニの下、代表DFラインの核でもあったゾフ、シレア、ジャンティーレ、ガブリーニらの守備力を武器に、アイルランド史へその名を残すMFブレイディを加えたチームは1980-81、81-82シーズンと連覇に成功。
 しかし特筆すべきは1982年、二人のスター選手の加入だろう。1980年に外国人の獲得禁止が解かれていたため、この年、念願の欧州CCを目指してユベントスは大物補強に着手する。一人はポーランド史上有数の名手であるズビグニエフ・ボニエク、そしてもう一人は言わずと知れた“将軍”ミシェル・プラティニ。

 熟成された守備に加えてプラティニという天才を得た第四期の黄金期ユベントスは、1982-83シーズン、早くも国内カップで優勝すると同時に欧州CCにおいて決勝進出を遂げている。このときは惜しくもキーガン率いるハンブルガーSV(西ドイツ)の軍門に下ったが、着々とチーム力を上げ、翌83-84シーズンには国内リーグ制覇と欧州カップウィナーズカップ初優勝という2冠を達成。
 そして迎えた84-85シーズンには、とうとう欧州CC初優勝を果たす。このときの決勝であるリバプール戦には“ヘイゼルの悲劇”という影が付きまとうが、内容自体は、よく守り、ボニエクがPKを貰い、プラティニが決めるというユベントスにとって理想的なゲーム運びであったといえよう。
 ちなみに、多くのタイトルを運びユベントスの伝説となったプラティニは、個人としても加入から3年連続でリーグ得点王に輝いただけでなく、3年連続バロン・ドール受賞という快挙を達成している。

 1985年にボニエクがローマへ、タルデッリがインテルへ、1986年のリーグ優勝を最後にトラパットーニ監督も去り、1987年にはプラティニも引退を発表した。自慢の守備陣も高齢化が進み、1980年代の後半には転換期を迎えることとなる。
 以後、約10年間、1980年代後半から90年代前半にかけてのユベントスはUEFAカップを2度制してはいるが、国内リーグ優勝からは遠ざかり、存在感を薄めていたと時代だといえる。
 この頃のセリエAは世界中のスターが一挙に集う最強リーグを自負していただけあり、実際、オランダ・トリオのACミランが全盛期を謳歌すれば、マラドーナやカレカを擁するナポリが対抗し、他にもドイツ・トライアングルのインテルや、マンチーニ、ビアリ、パリュウカを有したサンプドリア、そしてシーフォ、マルティン・バスケス、レンティーニで知られるトリノなど、本当に華やかで強力なチームが溢れていた。

 1990年に若きロベルト・バッジョを獲得し、1991年にはトラパットーニを呼び戻したユベントスだが、プラティニ時代に続く第五期の黄金期に値するのは、1994-95シーズンからであろう。これはフロントが一新されリッピ監督やモッジGMが就任して1季目にあたり、岐宿もそれまでしっかりと活躍してきたアッズーリの至宝バッジョがもう一人のファンタジスタの出現によりシーズン終了をもって放出された年でもある。
 1994-95シーズンに9年ぶりとなる国内リーグ優勝と国内カップ優勝の2冠に輝いたのを皮切りに、翌95-96シーズンにはプラティニの時代以来となる欧州CL制覇に成功する。このシーズンオフにジダンを加え、迎えたトヨタカップで勝利し、96-97シーズンの最後には再び国内リーグ優勝と欧州CL準優勝、続く97-98シーズンにも国内リーグ優勝と欧州CL準優勝と、まさに黄金期と呼ぶに相応しい時代を過ごした。

 この時期の成功について語るとき、イタリアが生んだ新星デル・ピエーロ、アクロバチックな点取り屋ビアリ、フランスの新将軍ジダンらのように派手な選手から、フランス代表とユベントスの縁の下の力持ち的存在であるデシャン、イタリア代表の働き者ディ・リービオ、長くチームを支えたフェラーラといったように地味で堅実な選手まで、数多くの面々が浮かぶことだろう。
 しかし最も特筆すべきなのは、ごく一部の選手を除き、非常に出入りが激しく、そういった中で上手くバランスを維持し、チーム力を向上させていたというところであろう。1998年の途中にチームを去ったリッピ監督や現在でもその地位にいるモッジGMらの計画的な手腕のほどが窺い知れる。

 名将の座を確固たるものとしたリッピ監督だが、98-99シーズン途中に一度チームを去り、それから2シーズン半は現ACミランのアンチェロッティ監督がチームを率いた。しかし、この時期はいずれも無冠で、早急な改革が必要となる。フロントは2001年にリッピ監督を呼び戻すと同時に、ラツィオからチェコ代表のネドベドを獲得。彼の活躍もあり、リッピの新生ユベントスは2001-02シーズンに国内リーグ優勝、02-03シーズンには国内リーグ優勝と欧州CL準優勝という好成績を残していった。
 03-04シーズンが不調だったこともあり、クラブはリッピをイタリア代表監督へ送り出す形で、今度はローマからイタリア屈指の名将カペッロを招聘し、スウェーデン期待のFWイブラヒモビッチやブラジル代表MFエメルソンらも加え、見事に昨季、国内リーグ優勝を果たした。今季は主力の放出もなく、ネドベドやデル・ピエーロといったベテラン選手も健在で、さらにはアーセナルからフランス代表ビエラを獲得するなど、磐石の布陣を擁し、栄光に満ちたクラブ史に新たな一頁を加えようとしている。