《正式名称》 Associazione Sportiva Roma
《ユニフォームカラー》 エンジ
【本拠地】 ローマ
【創立】 1927年
【スタジアム】 オリンピコ
【スタジアム収容人数】 80,558人
【国内タイトル】 国内リーグ:3回、国内カップ:7回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 UEFAカップ:1回
【過去の所属選手】 アマデイ、ディ・バルトロメイ、コンティ、ファルカン、ジャンニーニ
【現在の会長】 フランチェスコ・センシ
【現在の監督】 ルチアーノ・スパレッティ
【現在の所属選手】 トッティ、モンテッラ、デ・ロッシ、キブ、メクセス
【昨季の成績】 国内リーグ8位
イタリアの首都ローマ市を本拠地とするASローマは、中田英寿が所属していたこともあり、日本でもよく知られている名門クラブ。オリンピコの客席をエンジ色で埋め尽くし声を荒げながら熱狂的に旗を振るサポーターたちの姿は“永遠の都”ローマのイメージと重なる。
気候の温暖さも相まってか、大衆が醸し出す情熱的で奔放な雰囲気は、イタリア北部のクラブにはない独特のものだといえよう。逆にタイトルの数では、北部の強豪クラブに大きく劣るというのもまた事実であるのだが……。おそらくイタリアリーグにおけるASローマの位置は、北部以外のクラブの中で最も成功している人気チームといったところだろう。
ローマ市にはもう一つSSラツィオというビッグクラブが存在し、実績的に大きな差のない両者は長年拮抗したライバル関係を保っている。街を二分するローマ・ダービーはイタリアで最も注目されるダービーマッチの一つとなっているが、人気面ではASローマが勝っているようだ。思想や階級ではSSラツィオが一部の過激な極右サポーターで知られ、ASローマのほうは庶民のクラブという印象を持たれている。しかし、かの独裁者ムッソリーニはASローマがお気に入りチームであったといわれている。
実質的には、クラブ名の影響からか、ASローマはローマ市内で圧倒的な人気を誇り、一方、SSラツィオのサポーターはローマ市外各地、ラツィオ州全域に点在しているとのこと。
ちなみに、ASローマのチームカラー“ジャッロロッソ(黄色と赤)”は、カンピドリオのシンボルカラーに由来している。ローマ市のエンブレムも同じ配色。名高き“ローマの七つの丘”の一つ“カンピドリオ”は古代ローマの中心地区であり、現在そこにはローマ市庁舎や美術館が建ち並んでいる。また、ASローマのエンブレムにある狼とその乳を吸う兄弟は古代ローマ建国時の逸話をモデルにしているそうだ。こう見ていくとASローマがローマ市を象徴するクラブになったのは必然なのかもしれない。
国内有数の人気クラブとなったASローマだが、意外なことに創立したのは他の強豪クラブよりかなり遅い1927年のこと。のちにライバルとなるSSラツィオに遅れること27年、ASローマは「Associazione Sportiva Roma」として発足すると、すぐに上位へ顔を出し始める。最初のシーズンが8位で、次が3位、1930年代にはリーグ2位になること2回(1931、1936年)。当時の主力にはアティリオ・フェラリスやフルビオ・ベルナルディーニといった選手がいる。
産声を上げて間もないASローマだったが、1941-42シーズンにはクラブ設立14年目にしてリーグ優勝を遂げた。オーストリア系ハンガリー人アルフレッド・シェッファー監督の下、優勝チームは地元出身のアイドル選手であるアメデオ・アマデイを筆頭に、異色のアルバニア人FWクリエジウら優秀な攻撃陣を揃えていたといわれる。しかし、ムッソリーニ独裁政権下における首都のクラブのリーグ制覇は、現在あまり良い印象をもって受け入れていないようだ。
とんとん拍子で栄冠まで登り詰めたASローマだが、次のシーズンからは(イタリアの他のどのクラブもそうであったように)ただただ“グランデ・トリノ”の背中を眺めるだけとなる。1940年代のトリノは第二次大戦をはさみ5連覇を達成し、彼らが飛行機事故で戦力を失った頃には、ASローマのほうも完全に衰退してしまっていた。1942年のリーグ覇者は、数シーズンの低迷後、1951年にとうとうクラブ史上唯一のセリエB降格を経験する。
下部リーグでの生活を最小限にとどめ1952年には昇格を決めたASローマだったが、以後、1950~60年代にかけてそれぞれ華やかな時期を過ごしたユベントス、ACミラン、インテルミラノの牙城を崩すことはできなかった。この頃に加入したスター選手へ目を向けると、ACミランから1956年に伝説的スウェーデン人FWノルダール、1960年にウルグアイの英雄スキアフィーノ、ユベントスからは1962年にウェールズの巨漢FWジョン・チャールズ、1970年に“元”スペイン代表ルイス・デル・ソルを獲得している。彼らに共通していることは、年齢が30代であったことと、ASローマに1~2シーズンしか在籍しなかったということだった。
監督では1959年にイタリア人アルフレッド・フォーニ、1966年にはアルゼンチンの魔術師エレニオ・エレーラと契約している。1950年代にインテルを率いて2度の国内リーグ優勝を飾ったフォーニは、ASローマで2季目の60-61シーズンにクラブ初、そして現在でも唯一の欧州カップ獲得となるフェアーズカップ(UEFAカップの前身)優勝を果たした。1960年代にグランデ・インテルを築き上げたエレーラは、ASローマで3季目の68-69シーズンにコパ・イタリアを制している。しかし、ASローマ時代の彼らに共通していたのは、インテルミラノを率いていた頃ほどの名声を得られなかったということだろう。
久しくリーグで優勝争いに参加することなく、いくつかのカップタイトルで存在感を示すにとどまっていた首都のクラブに転機が訪れたのは1970年代中頃。かつて現役時代にスウェーデン代表やACミランで活躍したニルス・リードホルムが、73-74シーズン途中に監督へ就任すると、74-75のASローマは22年ぶりにリーグ3位という好成績を挙げる。このクラブの歴史を紐解くとき、選手よりも監督の存在を追っていくほうが分かりやすいのかもしれない。
リードホルムは77年に一時ミラノへ帰り、ACミランに11年ぶりのスクデットをもたらした直後の1979年には再びローマへ戻ってくる。そしてこのときを境にASローマの黄金期は幕を開けるのだった。
まず、79-80のチームはリーグこそ7位に甘んじるも、コパ・イタリアでは優勝する。主軸となりつつあったローマ生まれの名手ディ・バルトロメイ(72~75、76~84所属)、レンタルから帰還した同じく地元出身のアイドル選手ブルーノ・コンティ(73~75、76~78、79~91所属)、80年代に3度のリーグ得点王へ輝く点取り屋ロベルト・プルッツォ(78~88所属)、才能溢れる若手MFカルロ・アンチェロッティ(79~87所属)ら、すでに優れたイタリア人選手を多く有していた。
続く80-81シーズンにはブラジル代表の大物MFファルカンを加え、さらに勢いを増していき、国内リーグで2位まで順位を上げると、国内カップでは連覇に成功する。81-82は国内リーグ3位に終わるが、ロマニスタが長く失望する必要はなかった。翌82-83にチームは念願となるリーグ制覇を果たしたからである。優勝メンバーには上記の選手たちに加え、オーストリア代表MFヘルベルト・プロハスカや、ビエルコウッド、マルデーラといったイタリア人選手たちが名を連ねていた。
41年ぶりのスクデットに酔いしれたローマサポーターたちの幸福はあと1年ほど続く。逆にいえば83-84をもって一つの時代が終わることをそれは意味する。このシーズンもASローマは快調で、ファルカンに続きブラジル代表MFトニーニョ・セレーゾ(83~86年所属)を補強したチームは、国内リーグ2位、国内カップ優勝という成果を挙げた。しかし、結果的に1984年5月30日の欧州CC決勝でリバプールに敗れたことがそれら全てを台無しにしてしまったようである。PK戦による敗退であったこと、さらに決勝の地がオリンピコであったことは、ファンを一層落胆させる一因となったに違いない。これをもって名将リードホルムは愛弟子ディ・バルトロメイと共にACミランへ去っていった。
スベン・ゴラン・エリクソンが率いた84-85(国内リーグ7位)、85-86(国内リーグ2位、国内カップ優勝)は悪くない成績である。1985年に英雄ファルカンは去るが、入れ替わりで加わったポーランド代表ボニエク(85~88所属)や、黄金期後のASローマを象徴するアイドル選手“プリンチペ(王子)”ことジョゼッペ・ジャンニーニ(81~96所属)が攻撃を引っ張った。ドイツ代表のスターFWフェラー(87~92所属)を獲得し、監督にリードホルムが復帰した87-88にも、チームは国内リーグで3位というまずまずの位置につけている。しかし、いずれの場合も黄金期の栄光とその嫌な終わり方を忘れさせるには至らなかった。
クラブチームを語る上で、選手、監督、そしてもう一つ忘れてはならないのが会長だろう。1979年に就任し、今でもロマニスタの記憶に残る偉大なチームを作り上げたディノ・ビオラは、1991年、自らの死によってクラブを手放すことになった。90-91シーズン、チームは彼へ捧げるかのようにコパ・イタリアを制している。そしてこれはASローマにとって20世紀最後のタイトルになった。
そのディノ・ビオラ以降、長く会長に就任した人物は一人しかいない。1993年から現在までその椅子に座り続けているフランチェスコ・センシである。近年のASローマは、莫大な資産を有する彼と、ピッチで絶大な影響力を放つもう一方のフランチェスコ、この二人のチームだといえよう。
後にジャンニーニを継ぎクラブの新しい“プリンチペ”となるフランチェスコ・トッティが1部デビューを飾ったのも、ちょうど1993年だった。弱冠16歳でセリエAの舞台に立ったトッティは、自身が尊敬するジャンニーニ、ドイツ代表の天才MFへスラー(91~94所属)、アルゼンチン代表のカニーヒア(92~94所属)とバルボ(93~98、00~02所属)、ウルグアイ代表FWフォンセカ(94~97所属)らがいるチームの中で徐々に存在感を示し始める。そして毎年チーム強化のためクラブへ資金を注入するセンシ会長の期待に応えるかのごとく、ASローマを象徴するプレイヤーとして成長していくのだった。
二人のフランチェスコによる新生ASローマは、二人の個性的な監督を雇っている。アグレッシブなサッカーと歯に衣着せぬ発言で知られるチェコ人監督ゼーマンは、クラブを97-98(4位)、98-99(5位)の2シーズン指揮してチームに攻撃的な精神を植えつけた。そしてゼーマンの後に就任したのが、すでにミラノやマドリードで名声を手にしていたイタリア人ファビオ・カペッロ。前任者とは対照的に手堅いサッカーを身上とする新監督が率いた5シーズン、クラブは素晴らしい時期を過ごした。
最初の99-00は優勝したSSラツィオを横目に国内リーグ6位という苦杯を舐めたが、司令塔のトッティ、素晴らしい得点率を誇るモンテッラ(99~所属中)、ダービー男で知られるデルベッキオ(96~05所属)が組むイタリア人トライアングルは抜群の攻撃力を披露した。2000年1月には日本代表MF中田英寿が加入している。
大型補強の多さはカペッロ監督の特徴だろう。00-01開幕前、ブンデスリーガ史上最高額となる移籍金でエメルソン(00~04所属)を獲得する(結果的に彼は怪我でこのシーズンの大半を棒に振った)。すでにクラブは多くのブラジル人選手、アウダイ―ル(90~03所属)、カフー(97~03所属)、ザーゴ(98~02所属)、アスンソン(99~02所属)らを抱えていたが、あまり国籍にとらわれないのもカペッロの特徴なのかもしれない。同時にアルゼンチン代表のバティストゥータ(00~03所属)、バルボ、サムエル(00~04所属)の3選手を補強している。
こうして万全な体制で迎えた00-01シーズン、新加入のFWバティストゥータやDFサムエルがすぐに機能したこともあり、チームはカペッロ監督のお家芸である序盤戦のスタートダッシュに成功。中盤戦から終盤戦にかけては苦しむ場面もあったが、それは逆にスーパーサブ的存在だった中田英寿の活躍が光る機会となった。優勝を争うユベントスとの天王山における活躍は周知の通りである。
そして追いかけられるプレッシャーの中、チーム一丸となり最後はユベントスやSSラツィオを見事にかわしきったASローマが、00-01シーズンのイタリアリーグ王者に輝いたのだった。大型補強やスタートダッシュもさることながら、しっかり結果を残すところがカペッロ最大の持ち味だといえる。
また、上に名前が挙がった人間以外に、イタリア代表MFトンマージ(96~所属中)、ザネッティ(99~01所属)、ディ・フランチェスコ(97~01所属)、フランス代表MFカンデラ(96~05所属)といった選手たちがいぶし銀の働きをしていたことも忘れてはいけない。このシーズンのASローマが見せたパフォーマンスは決して目新しい類のものではなかったが、優勝を強く欲する選手と監督が一同に集っていたことは確かだろう。そして彼らはシーズンを通し団結して戦い、ローマの街を18年ぶりにエンジ色で染めたのだ。
翌01-02にはイタリア期待の新星カッサーノ(01-06所属)を加え、チームはさらなる躍進を目指す。このシーズンは、欧州CLでは不発ながら、国内リーグでは2位。また、シーズン前にイタリアスーパーカップで優勝し、00-01のリーグ優勝に花を添えることはできた。しかし、02-03になると8位まで順位を落とし、03-04の2位を最後にカペッロ監督がユベントスへ引き抜かれてしまう。
03-04前にはルーマニア代表キブ(03~所属中)へ数十億円を注ぎ込んだりもしていたが、この頃になるとクラブの金庫は空っぽになっていた。クラブは財政的な行き詰まりから、国内屈指の高給取りであるカペッロを引き止められなくなったのだ。経営難は深刻で、同時期にエメルソンがユベントスへ、サムエルはレアル・マドリードへ売却されている。こうして21世紀の初めに首都へ訪れた短い栄光は音もなく崩れ去っていった。
いつの時代のいかなるビッグクラブでも、偉大な指揮官と主力選手を一気に失ってしまえば、否応なく抜本的な改革を迫られる。しかも、年齢的な理由ではなく、経済的な理由からクラブがそれらを手放したとなると、建て直しには相応の努力と時間が必要だろう。不幸中の幸いといえるのは、いまやピッチ内外でクラブの象徴的存在となっているトッティが、残留姿勢を貫いていること。とはいえ、2003年にデビューした下部組織出身の新鋭デ・ロッシを筆頭に有能な若手が出現しているなどの好材料もあり、ロマニスタが現状をそこまで悲観し続ける必要はないのかもしれない。
いずれにしても、2000年代前半に築き上げた地位を2000年代後半にも維持できるかどうかは、まさに今にかかっているといえよう。近年のASローマの主役であるセンシとトッティ、二人のフランチェスコにとっては次の05-06シーズンが正念場となりそうだ。