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《正式名称》 Milan Associazione Calcio
《ユニフォームカラー》 赤/黒
【本拠地】 ミラノ
【創立】 1899年
【スタジアム】 ジョゼッペ・メアッツァ (サン・シーロ)
【スタジアム収容人数】 83,679人
【国内タイトル】 国内リーグ:17回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:5回
【国際タイトル】 欧州CL:6回、欧州カップウィナーズカップ:2回、欧州スーパーカップ:3回、インターコンチネンタルカップ:3回
【過去の所属選手】 ジャンニ・リベラ、ファン・バステン、フリット、ライカールト、フランコ・バレージ
【現在の会長】 シルビオ・ベルルスコーニ
【現在の監督】 カルロ・アンチェロッティ
【現在の所属選手】 パオロ・マルディーニ、シェフチェンコ、カカ、カフー、ネスタ
【昨季の成績】 国内リーグ2位
イタリア北部の大都市ミラノに本拠を置く欧州有数のビッグクラブ。1980年代後半のオランダ・トリオや、ドイツの自動車会社OPELのロゴが入ったadidasのユニフォーム、そのカラーに因んだ愛称“ロッソ・ネロ(赤と黒)”などはよく知られている。
同都市のライバル・クラブであるインテル・ミラノとホーム・スタジアム“サン・シーロ(ジョゼッペ・メアッツァ)”を共用しているが、その地で行われる両者の対戦は“ミラノ・ダービー”として盛り上がりを見せる。サン・シーロは元々ACミランの持ち物であったが、ミラノ市へ売却して以降は、両チームが共同でレンタルする形で使用している。持ち主であるミラノ市が、1979年に地元出身の伝説的な英雄メアッツァが亡くなったことを受けて、翌年に名称を“スタディオ・ジョゼッペ・メアッツァ”へ変更したが、今でもミラニスタは“サン・シーロ”と呼んでいる。
古くはACミランに労働者階級、インテル・ミラノに富裕階級のサポーターが多かったとのことだが、現在ではそれほど大きな差異はないともいわれている。両クラブ共、イタリア国内ではユベントスに次ぐ支持を得ていて、国外にも多くのファンを抱える人気クラブである。近年、インテルがタイトルから遠ざかっていることもあり、ミランが実質的にライバルとして追っているのは、国内のユベントス、国外のレアル・マドリードであるといえよう。
1899年、ミラノ在住のイギリス人たちを中心に数名のイタリア人らが加わり創設された「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ(Milan Cricket and Football Club)」がこのクラブの始まりとされる。後の1938年にクラブ名は英語から現在のイタリア語のものへと変更されたが、地名の部分は「Milano」(イタリア語)ではなく「Milan」(英語)をそのまま残したようだ。
1900年に国内リーグに参加すると、1900-01シーズンには見事に初優勝を飾る。1906年と1907年には連覇も遂げ順風満帆なスタートを切ったが、その後は長くタイトルから遠ざかり、クラブ初の黄金期と呼べる時代が来るまで40年以上待たなくてはいけない。
リーグ開設から数十年間のジェノバ、1930年代のユベントス、1940年代のトリノらの成功を横目に低迷していたミランだったが、1949年に転機が訪れる。1948年にロンドン五輪で優勝したスウェーデン代表の中心メンバーである“グレ・ノ・リ”トリオの加入である。
“プロフェッサー”の異名を持つパサーのグンナー・グレン、ミランに8季在籍して5度の得点王に輝いた頑強な点取り屋グンナー・ノルダール(イタリアで通算275試合225得点)、スウェーデン代表のキャプテンでオールラウンドな能力を備えていたニルス・リードホルム、彼らの活躍で、チームは1950-51シーズンに待望のリーグ優勝を果たした。以降、54-55、56-57、58-59にもリーグを制した1950年代のミランは、第一期の黄金期であったといえる。
また、この時代には、現在も活躍するパオロ・マルディーニの父チェーザレ・マルディーニ(彼も長くキャプテンを務めた)や、監督として名高いトラパットーニらが選手としてデビューしている。外国人選手では元ブラジル代表で後にイタリア代表にもなったFWアルタフィーニや、ウルグアイ代表を1950年W杯ブラジル大会で優勝に導いた英雄で1954年W杯後に世界最高額で加入したスキアフィーノらが有名。
ちなみに、1950年代のミランは55-56、57-58、59-60シーズンに欧州CCへの出場を果たしているが、最初の2回はディステファノやヘントを擁するレアル・マドリードに、最後の1回はクバラやスアレスを擁するバルセロナの前に屈している。最も栄冠に近づいたのは57-58シーズンで、このときは決勝に進出すると“最強”レアル・マドリードを相手に善戦し、“天才”スキアフィーノが先制点を挙げるも、チームは2度のリードを追いつかれ延長戦の末に惜しくも敗れた。
続いて、第二期の黄金期にあたるのが1960年代。この時代のミランと切っても切り離せないのが“超頭脳”や“ゴールデンボーイ”の呼び名で愛されたジャンニ・リベラだろう。彼について語られる言葉は、華奢な体、繊細なテクニック、研ぎ澄まされたインスピレーション、観るものを魅了する天才的なプレー…つまりは“ファンタジスタ”であったということである。
1960年に加入すると他の天才プレイヤー同様に若くから頭角を現し、1963年には20歳にしてバロン・ドール投票で2位にランクされる。その後も活躍を続け、チェーザレ・マルディーニからキャプテンを引継ぐと1979年まで長くミランに籍を置いている。
そのリベラを筆頭に、前述の点取り屋アルタフィーニ、リベロであったチェーザレ・マルディーニ、堅実なウィングハーフであったトラパットーニらを擁するチームは、“カテナチオ”の考案者として挙げられることもある名将ネレオ・ロッコの下、1961-62シーズンに国内リーグで優勝を果たすと、62-63シーズンには見事に念願の欧州CC初優勝を成し遂げたのである。
翌63-64シーズンの欧州CCでは準々決勝で再びレアル・マドリードの軍門に下るとタイトルから遠ざかり始め、アルタフィーニやマルディーニが去り、ミランは勢いを落としたかにも思えた。
しかし、エースのリベラや監督のネレオ・ロッコは健在な上、西ドイツ代表の名ディフェンダーであるカールハインツ・シュネリンガーや、“キング・オブ・ドリブル”で知られるスウェーデン代表ウィングのクロト・ハムリンらを加えたチームは、1967-68シーズンに再び国内リーグで優勝すると同時に欧州カップウィナーズカップでも初優勝を飾ったのだった。
そして、この時代のハイライトともいえるのが1969年で、68-69シーズンに2度目となる欧州CC制覇を遂げると、前回はペレのサントスに勝てなかったインターコンチネンタルカップでもタイトルを手にする。年末にはミランの選手として初受賞となるバロン・ドールにリベラが輝くのであった。
1960年代といえば、国内リーグにはシボリ、チャールズ、ボニペルティで名高いユベントスに、スアレス、マッツォーラ、ファケッティの“グランデ”インテルがいた。
欧州カップでは、エウゼビオ、コルナを擁するベンフィカが快進撃をみせれば、チャールトン、ベスト、ローのマンチェスター・ユナイテッドが全盛期を迎え、ディステファノこそいなかったがヘント、アマンシオらを有するレアル・マドリードも抜け目なく力を発揮する。
そしてインターコンチネンタルカップでも、南米からはペレのサントスや黄金期のぺニャロールが勝ち上がってくるわけだから、本当に数多くのライバルが存在した時代だといえよう。そういった中での栄光の数々は、ファンに至上の喜びをもたらしたに違いない。
華やかな1960年代に対して、70年代のミランは低迷期に差し掛かっていたといえるかもしれない。イタリアサッカー協会が外国人選手の補強を禁止していたため、かつてのように新たな助っ人を加えることもできず、必然的に、多くの代表メンバーがプレーするユベントスへと国内タイトルは流れていった。
しかし、ベテランになってもクラブに残ったリベラを中心とするチームは、1972年に国内カップを制すと、翌年には国内カップと欧州カップウィナーズカップの2冠を達成してみせる。
久々の国内リーグ優勝を遂げたのは1978-79、記念すべき10回目のスクデットというだけでなく、様々な意味で節目となるシーズンだった。一つは、このタイトルを置き土産に、それまで長く貢献してきたロッソ・ネロの伝説ジャンニ・リベラが引退している。と同時に、13歳からミランのプリマベーラに所属し、これから長く貢献していくこととなるもう一人の伝説フランコ・バレージが初めてトップチームの主力になったシーズンでもある。(デビューは前のシーズンで1試合だけ出場している)
1980年代のACミランは短期間のうちに、他のビッグクラブでは考えられないほど激動に溢れた時期を経験した。まず、1980年に八百長が発覚し、セリエB降格処分を受け、80年代最初のシーズン(80-81)をクラブ史上初となる2部リーグで過ごすことになる。そのシーズンにすぐさまセリエBで優勝し、81-82シーズンはセリエAの舞台に戻ってくるが、話はそれだけでは終わらず、今度は成績不振で降格の憂き目に遭うのだった。
82-83シーズンに再びセリエBで優勝しセリエAに戻ってきてからのミランは、経営難に苦しみながら、83-84が8位、84-85が5位、85-86が7位と成績的にあまり目立つことないシーズンを送る。しかし、この85-86シーズンは以後の成功を予見させる重要な節目だったといえよう。
1986年2月、経営状況の悪化から破産寸前に陥っていた古豪ACミランを、メディア王シルビオ・ベルルスコーニが買収する。メディア業界で莫大な富を蓄え、約20年に渡りクラブの実権を握り続けている現イタリア共和国首相その人である。
また、様々な要職に就き今もクラブに尽力している現イタリアサッカー協会会長アドリアーノ・ガリアーニがベルルスコーニの誘いでフロント入りしたのもこのときだった。そして85-86は、レジェンドの一人に名を連ねるまでになった現キャプテンのパオロ・マルディーニが初めてトップチームの主力になったシーズンでもある。(デビューは前のシーズンで1試合だけ出場している)
新体制で初めて迎えた86-87シーズンを5位で終えると、早くもベルルスコーニはチームの大改造に着手する。当時、オランダ・リーグで大活躍し欧州中のビッグクラブから注目されていたフリットとファンバステンを一挙に補強すると、無名ながらセリエBのパルマを指揮し国内カップでミランに土をつけたアリゴ・サッキを監督に大抜擢する。
87-88シーズン、ファンバステンは怪我で出遅れたが、ピッチの内でも外でもそのカリスマぶりをいかんなく発揮したフリットは1987年のバロン・ドールに選出され、サッキのプレッシング・サッカーは瞬く間にイタリアを席巻し、ミランは9季ぶりとなる国内リーグ優勝を飾った。ミランのクラブ史に歴然と輝く第三期黄金期の幕開けである。
88-89シーズンにはライカールトも加入し、ご存知“オランダ・トリオ”が完成すると、バレージ、コスタクルタ、タソッティ、マルディーニで構えるDFラインも熟成度を増していき、サッキのミランは全盛期に突入する。欧州CCの準決勝で天敵だったレアル・マドリードを粉砕すると、そのままの勢いで20年ぶりの優勝まで辿りつく。
これだけでは終わらず、その年のトヨタカップに勝利すると、前回王者として出場した89-90シーズンの欧州CCでも再びレアル・マドリード、そしてバイエルン、決勝ではベンフィカといった強豪クラブを軒並み破り去り2連覇に成功するのであった。強烈なサッキ、華麗なオランダ・トリオ、完璧なDFラインばかりが強調されるが、彼らの潤滑油となっていたドナドーニ、アンチェロッティ、エバーニ、コロンボらイタリア人選手たちの貢献も忘れてはいけないだろう。
翌90-91シーズンも、まずはトヨタカップのタイトルを獲り、順調にいくかにみえたが、ことは簡単には進まず、国内リーグのタイトルを逃すと同時に、欧州CC準々決勝敗退、それも1年間の欧州カップ出場禁止というオマケまで付いてのものだった。負けている試合の終了前、ピッチで停電事故が起きたときに、ミランの選手は残り時間を放棄し早々にスタジアムを後にしたのだという。
当時、ミランのロッカールームは数々のタイトルによる満足感と厳格な指揮官に対するストレスで行き詰っていたというが、それが如実に現れてしまった一幕であったといえるかもしれない。こういった事情もあり、ベルルスコーニはシーズン終了をもってサッキをイタリア代表監督へ送り出す。後任に選ばれたのは前任者同様、監督経験の浅いファビオ・カペッロだった。
1987年に就任したサッキのミランを第三期黄金期の前半とするなら、1991年に就任したカペッロのそれは残りの後半部分にあたる。両者の共通項が監督キャリアの浅さであるなら、相違点は選手キャリアの有無であろう。
プロ経験がなく監督としてプロサッカー界に入ったサッキに対して、カペッロは現役時代にミランやユベントスに所属したMFでイタリア代表において32のキャップ数を誇る一流選手。こういった背景からか、サッキは厳格な戦術マニアであり、一方のカペッロは柔軟で選手の扱いが上手いともいわれる。
また、よく知った選手に自分のフットボール観を叩き込み理想とするフットボールを追求しようとしたサッキに対し、カペッロは内容に執着せず強力な選手の補強を重ねて自分はバランスのみを考えるというスタンスだった。この点では、熟成と同時にマンネリ化へと陥っていた当時の状況を考えると、ちょうど良かったのもかもしれない。
1991-92シーズン、欧州カップ不出場だったこともあり、カペッロのミランはリーグ戦に集中する。主要メンバーに変化はなかったが、新しい名将に率いられたチームは初シーズンを国内リーグ制覇で飾ったにとどまらず、何と、セリエA史上初の無敗優勝という快挙まで成し遂げてしまったのだ。これにより監督カペッロの名がイタリア全土に響き渡ったことはいうまでもない。
翌92-93シーズンにはカペッロらしい大胆な補強を行い、オランダ・トリオがいたにもかかわらず、1991年欧州最優秀選手であるフランス代表FWパパン、ユーゴスラビアの“ジュニオ(天才)”ことサビチェビッチ、クロアチアの英雄ボバンを獲得。もともとFW陣にはイタリア代表マルコ・シモーネや日本でもお馴染みのマッサーロらがいたし、そもそも出場可能な外国人枠が3名までだったことを考えれば、これは尋常ではない。さらにはレンティーニ、エラーニオ、ディナポリといったイタリア人選手たちも加入している。
世代交代を視野に入れつつ、2チーム分の戦力を有することとなった92-93のミランは、まさに額面通り、無敗記録を58試合まで伸ばして国内リーグ2連覇を飾ると、チャンピオンズカップから名称を変えたチャンピオンズリーグでも決勝進出を果たす。決勝でマルセイユに破れはしたが総合的には満足いくものであり、このシーズンと翌シーズンあたりがカペッロ率いるミランの絶頂期であったといえるだろう。
93-94シーズンになると、まずはオランダ・トリオが去る。そしてフランスの“ザ・ロック(岩)”ことデサイーがマルセイユから、のちにイタリア代表に選出されるパヌッチがジェノアから加入する。アルベルティーニも力を示し始めていたのもこの頃であった。中盤から前線にかけて大幅なメンバーの入れ替えを施しながらも、このシーズンは国内リーグ3連覇を達成するだけでなく、カペッロ政権において初となる欧州王者にも輝いている。
あのクライフ率いるバルセロナとの対戦となったチャンピオンズリーグ決勝前は、各メディアでミラン不利が報じられていた。それもそのはずである、相手はブラジル代表ロマリーオとブルガリア代表ストイチコフを擁するバルセロナ。彼らの実力は直後に行われた1994年W杯アメリカ大会でも示された通り。
一方のミランはオランダ・トリオがいないだけでなく、DFラインの真ん中2枚、つまりバレージとコスタクルタを出場停止で欠くという悲惨な状況。多くの人間が“才”の部分においても“運”の部分においても、ミランに分はないと考えていたのだった。
しかし、結果は周知の通り、ミランが4-0という歴史に残る大勝を飾るに至っている。注目の決勝では、“不運”にも国内リーグ最終戦の直後という厳しい日程で動きが鈍いバルセロナの選手たちを前に、ミランが誇るサビチェビッチという“才能”が存分に踊ったのだった。
94-95シーズンになると、パパンが去りディカーニオを補強する以外は主だったメンバー変更もなかったが、チームは下降線を描き出す。監督にリッピ、GMにモッジを迎えた新体制のユベントスが国内リーグ優勝を果たすと、ミランは国内で4位にとどまり、準優勝を遂げたチャンピオンズリーグにおいても、決勝とGLを含め、優勝したアヤックスと3戦して3敗という寂しい成績を残している。
95-96シーズンには“リベリアの怪人”ことジョージ・ウェアやユベントスを追われたロベルト・バッジョらを獲得し、チャンピオンズリーグで頂点に輝いたユベントスをかわす形で、国内リーグ優勝を果たすと、5シーズンに渡りクラブを率いたカペッロがレアル・マドリードへと去る。安定感を失っていたチームは、この指揮官の退団にDFライン高齢化なども相まって、とうとう長く続いた第三期黄金期の幕を閉じることとなった。
1996年にカペッロが去って以降の5年間は、混沌の時代であったといっていい。皮肉にもこれはベルルスコーニが政界で苦しんでいた時期と重なっている。サッカーの話に戻ると、多くのスター選手、もしくはスター候補生が加入しては、馴染む前に退団していった。また、チームを支えていた選手もそれぞれの理由で出て行くようになる。
96-97シーズン途中にカペッロを追う形でパヌッチがレアル・マドリードへ移籍すると、ミランの象徴であったバレージや長くチームに貢献していたタソッティもシーズン終了をもって勇退する。チームの成績は11位であった。
翌97-98シーズンも10位で、ベルルスコーニ就任以来、最悪の2シーズンを過ごす。98-99シーズンには単発だが、ザッケローニ新監督の下、ボバン、ウェア、鹿島にも所属したレオナルド、そしてドイツ代表ビアホフらが活躍し、国内リーグ優勝を遂げている。1999年には現在のエースであるウクライナの点取り屋シェフチェンコを組み込むが、チームがタイトルを獲るまでには至らなかった。
転機となったのは2001年、2002年、2003年と立て続けに行われた大補強だろう。2001年はちょうどベルルスコーニが首相に返り咲いた年でもある。まず、この年に莫大な移籍金を投資し、イタリア代表FWフィリッポ・インザーギ、ポルトガル代表MFルイ・コスタ、インテルで燻っていたMFピルロらを補強し、監督にはアンチェロッティを置いて、01-02シーズンの国内リーグで4位に入る。
そして2002年には、ブラジル代表の10番リバウド、オランダ代表MFセードルフ、イタリアが誇る世界最高峰のDFネスタ、クロアチア代表DFシミッチらを加えたチームは、守備面での安定とフィリッポ・インザーギの爆発的な活躍もあり、欧州CLで順調な滑り出しをみせると、終盤は運にも味方され、久々の欧州王者に輝くことに成功した。
決勝では、2000年のスペイン勢に次ぐ史上2度目の同国対決を実現したわけだが、逆側の厳しいトーナメント(レアル・マドリード、マンチェスター・ユナイテッド、バルセロナと同居していた)を戦った相手のユベントスは、すでにエースのネドベドを累積警告で失っていたのだった。しかしミランにとって、02-03シーズンの欧州CL優勝は、それ以降から始まる新しい時代の序章に過ぎなかったともいえる。
守備を重視する慎重な試合運びを見せることが多かった02-03までに比べ、03-04シーズンのミランは明らかに違っていた。ブラジル代表の攻撃的MFカカ、同じくブラジル代表の重鎮カフー、元イタリア代表のパンカロらを加えたミランは、このシーズンから絵に描いたような攻撃サッカーを展開することとなる。
足元の技術に秀でた選手を多く並べ、高いボール・ポゼッションを保ち、両サイドバックが盛んにオーバーラップを繰り広げる魅力的なゲームの数々は多くのサッカーファン、そして何より攻撃サッカー信望者であるベルルスコーニを喜ばせたことだろう。
若き天才カカが才能をいかんなく発揮し、中盤の底でピルロがタクトを振るえば、カフーやパンカロ(もしくはセルジーニョ)が相手陣内の深くまで走り込み、最前線ではシェフチェンコが抜群の決定力を発揮する。そしてシーズン最後には、5年ぶりとなる国内リーグ優勝を飾ったのだった。
しかし、攻撃的になれば、その分、守備は手薄になる。これがサッカーであるからして、徐々にミランも守備陣に負担が掛かり始める。それに対するベルルスコーニの答えが2004年のオランダ代表DFスタム獲得であろう。ネスタとスタム、世界屈指のCBを2枚に増やすことで、バランスを調整したかったようだ。さらにはレンタルでチェルシーからアルゼンチン代表FWクレスポまで補強している。
とはいえ、結局はDF陣全体の高齢化の波には勝てず、04-05シーズンのチームはあえなく無冠で終わる。国内リーグはユベントスに次ぐ2位。欧州CL決勝も内容は互角で、PK戦による決着だったが、シーズン終盤になってパフォーマンスを大きく落としていたことは明らかであり、今後の改善が望まれる。
新シーズンには、チェルシーへ復帰したクレスポの代わりにイタリア代表の新鋭ジラルディーノとベテランのビエリ、さらにはチェコ代表ヤンコロフスキ、スイス代表フォーゲルらを補強して選手層のアップを図り、昨季のリベンジを期待させている。