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2005年09月20日
オランダ/エールディビジ
オランダの1部リーグ。
投稿者 kitamura : 23:30 | コメント (0)
ポルトガル/スーペルリーガ
ポルトガルの1部リーグ。
投稿者 kitamura : 14:30 | コメント (0)
ベンフィカ
《正式名称》
《ユニフォームカラー》/
【本拠地】
【創立】年
【スタジアム】
【スタジアム収容人数】人
【国内タイトル】国内リーグ:回、国内カップ:回、国内スーパーカップ:回
【国際タイトル】欧州CL:回、欧州カップウィナーズカップ:回、欧州スーパーカップ:回
【過去の所属選手】エウゼビオ、マリオ・コルナ
【現在の会長】
【現在の監督】
【現在の所属選手】
【昨季の成績】国内リーグ1位
投稿者 kitamura : 14:23 | コメント (0)
FCポルト
《正式名称》
《ユニフォームカラー》/
【本拠地】
【創立】年
【スタジアム】
【スタジアム収容人数】人
【国内タイトル】国内リーグ:回、国内カップ:回、国内スーパーカップ:回
【国際タイトル】欧州CL:回、欧州カップウィナーズカップ:回、欧州スーパーカップ:回
【過去の所属選手】パオロ・フットレ、デコ
【現在の会長】
【現在の監督】
【現在の所属選手】
【昨季の成績】国内リーグ2位
投稿者 kitamura : 14:04 | コメント (0)
スポルティング・リスボン
《正式名称》
《ユニフォームカラー》/
【本拠地】
【創立】年
【スタジアム】
【スタジアム収容人数】人
【国内タイトル】国内リーグ:回、国内カップ:回、国内スーパーカップ:回
【国際タイトル】欧州CL:回、欧州カップウィナーズカップ:回、欧州スーパーカップ:回
【過去の所属選手】
【現在の会長】
【現在の監督】
【現在の所属選手】
【昨季の成績】国内リーグ3位
投稿者 kitamura : 13:55 | コメント (0)
2005年09月19日
ドイツ/ブンデス・リーガ
ドイツの一部リーグ。
投稿者 kitamura : 23:07 | コメント (0)
バイエルン・ミュンヘン
《正式名称》 Fußball Culb Bayern München
《ユニフォームカラー》 赤/白
【本拠地】 ミュンヘン
【創立】 1900年
【スタジアム】 アリアンツ・アレーナ
【スタジアム収容人数】 66,000人
【国内タイトル】 国内リーグ:19回、国内カップ:12回、国内リーグカップ:5回、国内スーパーカップ:3回 (※非公式1回を含む)
【国際タイトル】 欧州CL:4回、UEFAカップ:1回、インターコンチネンタルカップ:2回
【過去の所属選手】 ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ルンメニゲ、マテウス、エフェンベルグ
【現在の会長】 カール・ハインツ・ルンメニゲ
【現在の監督】 フェリックス・マガト
【現在の所属選手】 カーン、バラック、マカーイ、ピサロ、ゼ・ロベルト
【昨季の成績】 国内リーグ1位、国内カップ優勝
投稿者 kitamura : 23:01 | コメント (0)
シャルケ04
《正式名称》
《ユニフォームカラー》 /
【本拠地】 ゲルゼンキルヒェン
【創立】 1904年
【スタジアム】 ヴェルティンス・アレーナ
【スタジアム収容人数】 61,524人
【国内タイトル】 国内リーグ:7回、国内カップ:4回、国内リーグカップ:1回、国内スーパーカップ:回
【国際タイトル】 UEFAカップ:1回、欧州カップウィナーズカップ:回、欧州スーパーカップ:回
【過去の有名選手】
【現在の会長】
【現在の監督】
【現在の所属選手】 クラニー、リンコルン、コビアシュビリ、ポウルセン、エルンスト
【昨季の成績】 国内リーグ2位
投稿者 kitamura : 22:56 | コメント (0)
ヴェルダー・ブレーメン
《正式名称》
《ユニフォームカラー》 /
【本拠地】 ブレーメン
【創立】 1899年
【スタジアム】 ヴェーザー・シュタディオン
【スタジアム収容人数】 42,500人
【国内タイトル】 国内リーグ:4回、国内カップ:5回、国内スーパーカップ:3回
【国際タイトル】 -
【過去の有名選手】
【現在の会長】
【現在の監督】
【現在の所属選手】 フリングス、ミクー、クローゼ、クラスニッチ、バウマン
【昨季の成績】 国内リーグ3位
投稿者 kitamura : 22:20 | コメント (0)
バイヤー・レバークーゼン
《正式名称》 TSV Bayer 04 Leverkusen e.V.
《ユニフォームカラー》 赤/黒
【本拠地】 レバークーゼン
【創立】 1904年
【スタジアム】 バイ・アレーナ
【スタジアム収容人数】 22,500人
【国内タイトル】 国内カップ:1回
【国際タイトル】 UEFAカップ:1回
【過去の有名選手】 チャ・ボンクン、ジョルジーニョ、キルステン、ヴェアンス、バラック
【現在の会長】 ライナー・カルムント
【現在の監督】 ミヒャエル・スキッベ
【現在の所属選手】 ベルバトフ、ボロニン、シュナイダー、ラメロウ、ノヴォトニー
【昨季の順位】 国内リーグ6位
投稿者 kitamura : 22:10 | コメント (0)
ボルシア・ドルトムント
《正式名称》 Ballspiel-Verein Borussia 1909 e.V. Dortmund
《チームカラー》 黒/黄
【本拠地】 ドルトムント
【創立】 1909年
【スタジアム】 ヴェストファーレン・シュタディオン
【スタジアム収容人数】 83,000人
【国内タイトル】 国内リーグ:6回、国内カップ:2回、国内スーパーカップ:3回
【国際タイトル】 欧州CL:1回、欧州カップウィナーズカップ:1回、インターコンチネンタルカップ:1回
【過去の有名選手】 メラー、シャプイサ、ザマー、ジュリオ・セザール、コーラー
【現在の会長】 ラインハルト・ラウバル
【現在の監督】 ベルト・ファン・マルヴァイク
【現在の所属選手】 ロシツキー、コレル、リッケン、ケール、ヴェアンス
【昨季の成績】 国内リーグ7位
投稿者 kitamura : 21:58 | コメント (0)
ハンブルガーSV
《正式名称》 Hamburger Sport-Verein e. V.
《チームカラー》 白/赤
【本拠地】 ハンブルグ
【創立】 1897年
【スタジアム】 AOLアレーナ
【スタジアム収容人数】 55,000人
【国内タイトル】 国内リーグ:6回、国内カップ:3回、国内リーグカップ:2回
【国際タイトル】 欧州CL:1回、欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の有名選手】 ウーベ・ゼーラー、シュルツ、カルツ、フェリックス・マガト、ケビン・キーガン
【現在の会長】 ベルント・ベーマイヤー
【現在の監督】 トーマス・ドル
【現在の所属選手】 ファン・デル・ファールト、バルバレス、マハダビキア、ヤロリム、ファン・ブイテン
【昨季の成績】 国内リーグ8位
投稿者 kitamura : 21:43 | コメント (0)
ボルシア・メンヘングラッドバッハ
《正式名称》 Borussia VfL 1900 e.V. Mönchengladbach
《ユニフォームカラー》 黄/黒
【本拠地】 メンヘングラッドバッハ
【創立】 1900年
【スタジアム】 ボルシア・パーク
【スタジアム収容人数】 53,148人
【国内タイトル】 国内リーグ:5回、国内カップ:3回、国内スーパーカップ:1回 (※非公式)
【国際タイトル】 UEFAカップ:2回
【過去の有名選手】 ネッツァー、フォクツ、ボンホフ、ハインケス、シモンセン
【現在の会長】 ヘルマン・ヤンセン
【現在の監督】 ホルシュト・ケッペル
【現在の所属選手】 エウベル、ノイビル、ソンク、ツィーゲ、ケーシー・ケラー
【昨季の成績】 国内リーグ15位
投稿者 kitamura : 21:31 | コメント (0)
2005年09月18日
フランス/リーグ・アン
フランスの1部リーグ。
投稿者 kitamura : 23:50 | コメント (0)
リヨン
《正式名称》
《ユニフォームカラー》/
【本拠地】リヨン
【創立】1950年
【スタジアム】ジェルラン
【スタジアム収容人数】48,552人
【国内タイトル】国内リーグ:4回、国内カップ:3回、国内リーグカップ:1回
【国際タイトル】-
【過去の所属選手】
【現在の会長】
【現在の監督】ジェラール・ウリエ
【現在の所属選手】ジュニーニョ・ペルナンブカーノ、カリュー、チアゴ、ヴィルトール、ゴヴー
【昨季の成績】国内リーグ1位
投稿者 kitamura : 23:41 | コメント (0)
サンテティエンヌ
《正式名称》 Association Sportive de Saint-Étienne Loire
《ユニフォームカラー》 緑/白
【本拠地】 サンテティエンヌ
【創立】 1920年
【スタジアム】 スタッド・ジョフロワ・ギシャール
【スタジアム収容人数】 36,600人
【国内タイトル】 国内リーグ:10回、国内カップ:6回、国内スーパーカップ:5回
【国際タイトル】 -
【過去の所属選手】 サリフ・ケイタ、オズワルド・ピアッサ、ドミニク・ロシュトー、ヨニー・レップ、プラティニ
【現在の会長】 ベルナール・サイアッゾ
【現在の監督】 エリー・ボープ
【現在の所属選手】 ポスティガ、フェインドゥーノ、ゾコラ
【昨季の成績】 国内リーグ6位
投稿者 kitamura : 23:12 | コメント (0)
パリ・サンジェルマン
《正式名称》 Paris-Saint-Germain Football Club
《ユニフォームカラー》 青/赤
【本拠地】 パリ
【創立】 1970年
【スタジアム】 パルク・デ・プランス
【スタジアム収容人数】 48,527人
【国内タイトル】 国内リーグ:2回、国内カップ:6回、国内リーグカップ:2回、国内スーパーカップ:2回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の所属選手】 ルイス・フェルナンデス、ドミニク・ロシュトー、サフェト・スシッチ、ジノラ、ウェア
【現在の会長】 ピエール・ブレイユ
【現在の監督】 ギー・ラコンブ
【現在の所属選手】 パウレタ、カルー、ロテン、ドラソー、ジェぺス
【昨季の成績】 国内リーグ9位
投稿者 kitamura : 23:09 | コメント (0)
2005年09月17日
イタリア/セリエA
《正式名称》 Lega Nazionale Professionisti ( Lega Calcio )
《通称》 セリエA
【国】 イタリア
【創設】 1898年 (1929年)
【統括】 イタリアサッカー連盟 (FIGC)
【UEFAランキング】 3位
《国内1部リーグ》
【名称】 Serie A セリエA
【参加クラブ数】 20チーム
【優勝回数最多クラブ】 ユベントス:28回
【昨季の優勝クラブ】 ユベントス
【昨季の得点王】 ルカレッリ (リボルノ) :24得点
《国内カップ》
【名称】 コパ・イタリア
【優勝回数最多クラブ】 ユベントス:9回
【昨季の優勝クラブ】 インテル・ミラノ
《国内スーパーカップ》
【名称】 イタリアスーパーカップ
【優勝回数最多クラブ】 ACミラン:5回
【昨季の優勝クラブ】 インテル・ミラノ
投稿者 kitamura : 16:01 | コメント (0)
イタリア/コパ・イタリア
《正式名称》 Coppa Italia
《通称》 コパ・イタリア
【国】 イタリア
【創設】 1922年
【統括】 イタリアサッカー連盟 (FIGC)
【参加クラブ数】 セリエA所属全20チーム、セリエB所属全22チーム、セリエCから上位30チーム
【優勝回数最多クラブ】 ユベントス:9回
【昨季の優勝クラブ】 インテル・ミラノ
投稿者 kitamura : 15:51 | コメント (0)
イタリア/イタリアスーパーカップ
《正式名称》 Supercoppa italiana di calcio
《通称》 イタリアスーパーカップ
【国】 イタリア
【創設】 1988年
【統括】 イタリアサッカー連盟 (FIGC)
【参加クラブ数】 前季の1部リーグ優勝クラブと国内カップ優勝クラブ。
【優勝回数最多クラブ】 ACミラン:5回
【昨季の優勝クラブ】 インテル・ミラノ
投稿者 kitamura : 15:45 | コメント (0)
イタリア/04-05順位表
2004-2005シーズン イタリアリーグ順位表
【1部】
1.ユベントス → 欧州CL本選
2.ACミラン → 欧州CL本選
3.インテルミラノ → 欧州CL予備選3回戦
4.ウディネーゼ → 欧州CL予備選3回戦
5.サンプドリア → UEFAカップ
6.パレルモ → UEFAカップ
7.メッシーナ
8.ASローマ → UEFAカップ
8.リボルノ
10.レッチェ
10.レッジーナ
10.カリアリ
10.ラツィオ
14.シエナ
15.キエーボ
16.フィオレンティーナ
16.パルマ → プレーオフ → 1部残留
16.ボローニャ → プレーオフ → 2部降格
19.ブレシア → 2部降格
20.アタランタ → 2部降格
※16位に3チームが同勝ち点で並んだが直接対決の戦績によりフィオレンティーナは1部残留
【2部】
1.ジェノア → 1部昇格 →八百長発覚で3部(セリエC1)降格処分
2.エンポリ → 2位に3チームが同勝ち点で並んだが直接対決の戦績により1部昇格
2.トリノ → プレーオフ → プレーオフの成績1位で1部昇格 → 税金未納問題で昇格取消処分
2.ペルージャ → プレーオフ → プレーオフの成績2位で1部昇格 → セリエA、Bから登録除外処分
5.トレビソ → プレーオフ → プレーオフ3位タイ → 代替で1部昇格
6.アスコリ → プレーオフ → プレーオフ3位タイ → 代替で1部昇格
【国内カップ】
優勝:インテルミラノ
準優勝:ASローマ
ベスト4進出:カリアリ、ウディネーゼ
※優勝したインテルミラノが欧州CLに出場するためUEFAカップ出場権は準優勝のASローマへ。
【国内スーパーカップ】
優勝:インテルミラノ
準優勝:ユベントス
※2005年8月開催。
投稿者 kitamura : 15:38 | コメント (0)
ユベントス
《正式名称》 Juventus Football Club
《ユニフォームカラー》 白/黒
【本拠地】 トリノ
【創立】 1897年
【スタジアム】 デッレ・アルピ
【スタジアム収容人数】 67,229人
【国内タイトル】 国内リーグ:28回、国内カップ:9回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 欧州CL:2回、UEFAカップ:3回、欧州カップウィナーズカップ:1回、欧州スーパーカップ:2回、インターコンチネンタルカップ:2回
【過去の所属選手】 オルシ、ボニペルティ、シボリ、プラティニ、ジダン
【現在の会長】 フランツォ・スティーブンス
【現在の監督】 ファビオ・カペッロ
【現在の所属選手】 ネドベド、イブラヒモビッチ、デル・ピエーロ、テュラム、ブッフォン
【昨季の成績】 国内リーグ1位
“イタリアの貴婦人(ラ・シニョーラ)”の愛称で親しまれている国内No.1クラブにとどまらない欧州を代表する強豪クラブの一つ。本拠地はイタリア北西部のアルプス山脈近くに位置するトリノ市で、古くから同じトリノ市に本社を置くイタリア最大の企業ファイアットの出資を受けている。とりわけファイアットでもユベントスでも名誉会長を務めていたジャンニ・アニエリの名はよく知られている。
ファンは国内全土に及び、イタリアで最もサポーターの多いクラブである一方、地元トリノにおける人気は低く、ほとんどの市民はユベントスではなくトリノ(Torino Calcio 1906 s.p.a)を応援している。ユベントスとトリノの対戦は“トリノ・ダービー”として盛り上がりを見せるが(とりわけトリノ側)、昨今は両者の格差が開いていることもあり、セリエAで観ることができる機会も少なくなった。
また、ユベントスとインテル・ミラノの対戦は“イタリア・ダービー”と呼ばれ、近年はこちらのほうが注目されることが多い。この2チームのみが、かつて一度も2部に降格したことのないイタリアのクラブであることから、ナショナル・ダービーの名前が付けられるようになった。
地元サポーターの少なさという背景にアクセスの悪さやスタンドの遠さなどの諸事情も相まって、“スタディオ・デッレ・アルピ(アルプスのスタジアム)”は客の入らないスタジアムとして有名。欧州有数の人気と実績を誇るクラブであるにもかかわらず極端に集客力が低いため、近年、フロントが、所有者であるトリノ市とスタジアムの買取について話し合い、改築プランを立てているとのこと。
というのも、スタジアムを持たずにレンタルし近所のクラブと共有するというのはイタリアで通常行われている方法であり、ユベントスは地元のライバルであるトリノと同じ場所を使用していた。同様にミラノではACミランとインテル・ミラノがミラノ市から、ローマならASローマとSSラツィオがローマ市から、それぞれレンタルする形で共用しているということである。ユベントスは、これを買い取って陸上トラックなどのないサッカー専用スタジアムへの改修や娯楽施設の増設をする計画を立てている。
1897年にトリノの学生によって創設されたのが始まりで、ユベントスとはラテン語で“青春”を意味する。現在、ユニフォームに因んだ“ビアンコ・ネーロ(白と黒)”という愛称が、“貴婦人”と並びよく利用されているが、お馴染みのゼブラ・カラーとなったのは1903年のこと。今でもアウェイで見かけるピンク色のユニフォームが当初のホームカラーであったのだが、イングランドのノッツ・カウンティに倣い白黒へ変更したとされる。
1898年からリーグ戦は開始されていたが、最初はジェノバの独壇場(リーグ開設7年で優勝6回)で、ユベントスが初優勝したのは1905年であった。その後も、ジェノバらがタイトルを重ねるなか、ユベントスは苦しみ、やっと1926年に2回目の優勝を遂げている。しかし数シーズン後には、クラブ史に残る黄金期に投入することとなるのであった。
長い歴史を持ち、多くのタイトルを獲り、数々のスターを抱えてきたクラブであるため、黄金期と呼べる時期も複数存在する。その中で第一期にあたり、クラブ史上初めて、ユベントスという名前をイタリア全土へと知らしめたのがこの時代であろう。
1928年のアムステルダム五輪で準優勝したアルゼンチン代表チームから、まず、1929年にライムンド・オルシが加入する。ユベントスはこの小柄な左ウィングの活躍で、1929-30シーズンこそ若きジョゼッぺ・メアッツァ率いるインテルの後塵を拝するが、1930-31シーズンには通算3度目の優勝を飾る。続いて1931年に再びアルゼンチンから今度は屈強なMFルイジート・モンティも加えると、チームの勢いは止まらないどころか、結局、オルシが去る1934-35シーズンまでメアッツァのインテルを全く寄せ付けず、前人未到のリーグ5連覇を達成したのだった。
ちょうど独裁者ムッソリーニが1934年W杯イタリア大会での優勝を目論んでいたことから、オルシやモンティは帰化という形でイタリア代表へ半ば強引に引き抜かれている。それほど彼らの力が突出していたという証明だろう。当時のイタリア代表の主力には、彼らアルゼンチン勢の他にも、ゾフやオリビエリと並び称される名GKコンビなどがユベントスから名を連ねた。
オルシ以降も1938年と1942年に単発で国内カップを制すが、何といっても1940年代はライバルのトリノがバレンティーノ・マッツォーラらを有し無類の強さを発揮していた時期であり、ユベントスにとって第二期の黄金期といえるのは後の1950~60年代前半。
この時期も、国内だと1950年代にスウェーデンの「グレ・ノ・リ」トリオ、1960年代にジャンニ・リベラやアルタフィーニ(70年代にはユベントスにも加入)らを擁したACミランや、1960年代にルイス・スアレス、サンドロ・マッツォーラ、ファケッティらにより絶頂期にあったインテル・ミラノといった強力なライバルが存在したため、1930年代ほどのタイトルは得られていない。ディステファノのレアル・マドリードやクバラのバルセロナが席巻していた欧州カップも同様である。
しかし、1946年から1961年まで長く活躍した初代“ゴールデンボーイ”ことFWジャンピエロ・ボニペルティ、1957年に当時世界最高額で移籍してきて1961年にはバロン・ドールも受賞したアルゼンチンの名手“カベソン(デカ頭)”ことエンリケ・オマール・シボリ、同じく1957年に加わったウェールズの伝説的ストライカー“イル・ブオン・ジガンテ(優しき巨人)”ことジョン・チャールズで形成する破壊的な攻撃トリオは、イタリア・サッカー史に強烈なインパクトを残したといえよう。
ボニペルティ(1948年)、チャールズ(1958年)、シボリ(1960年)、三者共に得点王に輝き、チームは1950~1960年代前半までの間に5回の国内リーグ優勝と5回の国内カップ優勝を果たしたのだった。
1960年代後半にはミラノの両雄の活躍もあり、しばらく勢いを落としたユベントスだが、1970年代には再び盛り返すことに成功する。前述の通り、1950~60年代前半のイタリアは、諸クラブが優れた外国人スターを抱えていた、と同時に、代表チーム弱体化への危惧が叫ばれた時代でもあった。この頃、実際にW杯1次GL敗退や予選敗退が続いていたので、とうとうイタリアサッカー協会は外国人選手との新規契約を禁止し、これは1970年代を通して続くこととなる。
ユベントスの1970年代は第三期の黄金期にあたり、国内で着実にNo.1の地位を固めていった時代だといえよう。ベッテガ、ゾフ、シレア、ジャンティーレ、タルデッリ、ガウジオら多くのイタリア代表選手を有し、国内リーグ優勝5回、国内カップ優勝1回、そしてクラブ初の国際タイトルとなったUEFAカップでも優勝を成し遂げている。1968年からチームに加わり1973年まで所属したドイツ代表ヘルムート・ハーラーや、すでにイタリア国籍を取得していたブラジル人FWアルタフィーニら一部の例外を除いて、当時のユベントスは全てイタリア人選手で構成されていた。ライバルチームも同様であり、代表選手の多いユベントスが国内タイトルを独占したのはある意味で必然だったといえるかもしれない。
しかし、長い伝統を持ち、国内随一の実績を誇るユベントスのファンが望むものは、この頃になると一つに絞られていた。他でもない、それは欧州のクラブレベルにおいて最高峰に位置する欧州チャンピオンズ・カップである。1960年代にミランとインテルが2回ずつ制しているにもかかわらず、イタリアの雄であるはずのユベントスはまだ一度も優勝していなかった。1973年には初の決勝進出を果たすが、このときはクライフを中心とした全盛期のアヤックスを前に涙を呑んでいる。
1980年代に入っても国内での強さは相変わらずで、1976年よりクラブを率いている名将トラパットーニの下、代表DFラインの核でもあったゾフ、シレア、ジャンティーレ、ガブリーニらの守備力を武器に、アイルランド史へその名を残すMFブレイディを加えたチームは1980-81、81-82シーズンと連覇に成功。
しかし特筆すべきは1982年、二人のスター選手の加入だろう。1980年に外国人の獲得禁止が解かれていたため、この年、念願の欧州CCを目指してユベントスは大物補強に着手する。一人はポーランド史上有数の名手であるズビグニエフ・ボニエク、そしてもう一人は言わずと知れた“将軍”ミシェル・プラティニ。
熟成された守備に加えてプラティニという天才を得た第四期の黄金期ユベントスは、1982-83シーズン、早くも国内カップで優勝すると同時に欧州CCにおいて決勝進出を遂げている。このときは惜しくもキーガン率いるハンブルガーSV(西ドイツ)の軍門に下ったが、着々とチーム力を上げ、翌83-84シーズンには国内リーグ制覇と欧州カップウィナーズカップ初優勝という2冠を達成。
そして迎えた84-85シーズンには、とうとう欧州CC初優勝を果たす。このときの決勝であるリバプール戦には“ヘイゼルの悲劇”という影が付きまとうが、内容自体は、よく守り、ボニエクがPKを貰い、プラティニが決めるというユベントスにとって理想的なゲーム運びであったといえよう。
ちなみに、多くのタイトルを運びユベントスの伝説となったプラティニは、個人としても加入から3年連続でリーグ得点王に輝いただけでなく、3年連続バロン・ドール受賞という快挙を達成している。
1985年にボニエクがローマへ、タルデッリがインテルへ、1986年のリーグ優勝を最後にトラパットーニ監督も去り、1987年にはプラティニも引退を発表した。自慢の守備陣も高齢化が進み、1980年代の後半には転換期を迎えることとなる。
以後、約10年間、1980年代後半から90年代前半にかけてのユベントスはUEFAカップを2度制してはいるが、国内リーグ優勝からは遠ざかり、存在感を薄めていたと時代だといえる。
この頃のセリエAは世界中のスターが一挙に集う最強リーグを自負していただけあり、実際、オランダ・トリオのACミランが全盛期を謳歌すれば、マラドーナやカレカを擁するナポリが対抗し、他にもドイツ・トライアングルのインテルや、マンチーニ、ビアリ、パリュウカを有したサンプドリア、そしてシーフォ、マルティン・バスケス、レンティーニで知られるトリノなど、本当に華やかで強力なチームが溢れていた。
1990年に若きロベルト・バッジョを獲得し、1991年にはトラパットーニを呼び戻したユベントスだが、プラティニ時代に続く第五期の黄金期に値するのは、1994-95シーズンからであろう。これはフロントが一新されリッピ監督やモッジGMが就任して1季目にあたり、岐宿もそれまでしっかりと活躍してきたアッズーリの至宝バッジョがもう一人のファンタジスタの出現によりシーズン終了をもって放出された年でもある。
1994-95シーズンに9年ぶりとなる国内リーグ優勝と国内カップ優勝の2冠に輝いたのを皮切りに、翌95-96シーズンにはプラティニの時代以来となる欧州CL制覇に成功する。このシーズンオフにジダンを加え、迎えたトヨタカップで勝利し、96-97シーズンの最後には再び国内リーグ優勝と欧州CL準優勝、続く97-98シーズンにも国内リーグ優勝と欧州CL準優勝と、まさに黄金期と呼ぶに相応しい時代を過ごした。
この時期の成功について語るとき、イタリアが生んだ新星デル・ピエーロ、アクロバチックな点取り屋ビアリ、フランスの新将軍ジダンらのように派手な選手から、フランス代表とユベントスの縁の下の力持ち的存在であるデシャン、イタリア代表の働き者ディ・リービオ、長くチームを支えたフェラーラといったように地味で堅実な選手まで、数多くの面々が浮かぶことだろう。
しかし最も特筆すべきなのは、ごく一部の選手を除き、非常に出入りが激しく、そういった中で上手くバランスを維持し、チーム力を向上させていたというところであろう。1998年の途中にチームを去ったリッピ監督や現在でもその地位にいるモッジGMらの計画的な手腕のほどが窺い知れる。
名将の座を確固たるものとしたリッピ監督だが、98-99シーズン途中に一度チームを去り、それから2シーズン半は現ACミランのアンチェロッティ監督がチームを率いた。しかし、この時期はいずれも無冠で、早急な改革が必要となる。フロントは2001年にリッピ監督を呼び戻すと同時に、ラツィオからチェコ代表のネドベドを獲得。彼の活躍もあり、リッピの新生ユベントスは2001-02シーズンに国内リーグ優勝、02-03シーズンには国内リーグ優勝と欧州CL準優勝という好成績を残していった。
03-04シーズンが不調だったこともあり、クラブはリッピをイタリア代表監督へ送り出す形で、今度はローマからイタリア屈指の名将カペッロを招聘し、スウェーデン期待のFWイブラヒモビッチやブラジル代表MFエメルソンらも加え、見事に昨季、国内リーグ優勝を果たした。今季は主力の放出もなく、ネドベドやデル・ピエーロといったベテラン選手も健在で、さらにはアーセナルからフランス代表ビエラを獲得するなど、磐石の布陣を擁し、栄光に満ちたクラブ史に新たな一頁を加えようとしている。
投稿者 kitamura : 14:57 | コメント (0)
ACミラン
《正式名称》 Milan Associazione Calcio
《ユニフォームカラー》 赤/黒
【本拠地】 ミラノ
【創立】 1899年
【スタジアム】 ジョゼッペ・メアッツァ (サン・シーロ)
【スタジアム収容人数】 83,679人
【国内タイトル】 国内リーグ:17回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:5回
【国際タイトル】 欧州CL:6回、欧州カップウィナーズカップ:2回、欧州スーパーカップ:3回、インターコンチネンタルカップ:3回
【過去の所属選手】 ジャンニ・リベラ、ファン・バステン、フリット、ライカールト、フランコ・バレージ
【現在の会長】 シルビオ・ベルルスコーニ
【現在の監督】 カルロ・アンチェロッティ
【現在の所属選手】 パオロ・マルディーニ、シェフチェンコ、カカ、カフー、ネスタ
【昨季の成績】 国内リーグ2位
イタリア北部の大都市ミラノに本拠を置く欧州有数のビッグクラブ。1980年代後半のオランダ・トリオや、ドイツの自動車会社OPELのロゴが入ったadidasのユニフォーム、そのカラーに因んだ愛称“ロッソ・ネロ(赤と黒)”などはよく知られている。
同都市のライバル・クラブであるインテル・ミラノとホーム・スタジアム“サン・シーロ(ジョゼッペ・メアッツァ)”を共用しているが、その地で行われる両者の対戦は“ミラノ・ダービー”として盛り上がりを見せる。サン・シーロは元々ACミランの持ち物であったが、ミラノ市へ売却して以降は、両チームが共同でレンタルする形で使用している。持ち主であるミラノ市が、1979年に地元出身の伝説的な英雄メアッツァが亡くなったことを受けて、翌年に名称を“スタディオ・ジョゼッペ・メアッツァ”へ変更したが、今でもミラニスタは“サン・シーロ”と呼んでいる。
古くはACミランに労働者階級、インテル・ミラノに富裕階級のサポーターが多かったとのことだが、現在ではそれほど大きな差異はないともいわれている。両クラブ共、イタリア国内ではユベントスに次ぐ支持を得ていて、国外にも多くのファンを抱える人気クラブである。近年、インテルがタイトルから遠ざかっていることもあり、ミランが実質的にライバルとして追っているのは、国内のユベントス、国外のレアル・マドリードであるといえよう。
1899年、ミラノ在住のイギリス人たちを中心に数名のイタリア人らが加わり創設された「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ(Milan Cricket and Football Club)」がこのクラブの始まりとされる。後の1938年にクラブ名は英語から現在のイタリア語のものへと変更されたが、地名の部分は「Milano」(イタリア語)ではなく「Milan」(英語)をそのまま残したようだ。
1900年に国内リーグに参加すると、1900-01シーズンには見事に初優勝を飾る。1906年と1907年には連覇も遂げ順風満帆なスタートを切ったが、その後は長くタイトルから遠ざかり、クラブ初の黄金期と呼べる時代が来るまで40年以上待たなくてはいけない。
リーグ開設から数十年間のジェノバ、1930年代のユベントス、1940年代のトリノらの成功を横目に低迷していたミランだったが、1949年に転機が訪れる。1948年にロンドン五輪で優勝したスウェーデン代表の中心メンバーである“グレ・ノ・リ”トリオの加入である。
“プロフェッサー”の異名を持つパサーのグンナー・グレン、ミランに8季在籍して5度の得点王に輝いた頑強な点取り屋グンナー・ノルダール(イタリアで通算275試合225得点)、スウェーデン代表のキャプテンでオールラウンドな能力を備えていたニルス・リードホルム、彼らの活躍で、チームは1950-51シーズンに待望のリーグ優勝を果たした。以降、54-55、56-57、58-59にもリーグを制した1950年代のミランは、第一期の黄金期であったといえる。
また、この時代には、現在も活躍するパオロ・マルディーニの父チェーザレ・マルディーニ(彼も長くキャプテンを務めた)や、監督として名高いトラパットーニらが選手としてデビューしている。外国人選手では元ブラジル代表で後にイタリア代表にもなったFWアルタフィーニや、ウルグアイ代表を1950年W杯ブラジル大会で優勝に導いた英雄で1954年W杯後に世界最高額で加入したスキアフィーノらが有名。
ちなみに、1950年代のミランは55-56、57-58、59-60シーズンに欧州CCへの出場を果たしているが、最初の2回はディステファノやヘントを擁するレアル・マドリードに、最後の1回はクバラやスアレスを擁するバルセロナの前に屈している。最も栄冠に近づいたのは57-58シーズンで、このときは決勝に進出すると“最強”レアル・マドリードを相手に善戦し、“天才”スキアフィーノが先制点を挙げるも、チームは2度のリードを追いつかれ延長戦の末に惜しくも敗れた。
続いて、第二期の黄金期にあたるのが1960年代。この時代のミランと切っても切り離せないのが“超頭脳”や“ゴールデンボーイ”の呼び名で愛されたジャンニ・リベラだろう。彼について語られる言葉は、華奢な体、繊細なテクニック、研ぎ澄まされたインスピレーション、観るものを魅了する天才的なプレー…つまりは“ファンタジスタ”であったということである。
1960年に加入すると他の天才プレイヤー同様に若くから頭角を現し、1963年には20歳にしてバロン・ドール投票で2位にランクされる。その後も活躍を続け、チェーザレ・マルディーニからキャプテンを引継ぐと1979年まで長くミランに籍を置いている。
そのリベラを筆頭に、前述の点取り屋アルタフィーニ、リベロであったチェーザレ・マルディーニ、堅実なウィングハーフであったトラパットーニらを擁するチームは、“カテナチオ”の考案者として挙げられることもある名将ネレオ・ロッコの下、1961-62シーズンに国内リーグで優勝を果たすと、62-63シーズンには見事に念願の欧州CC初優勝を成し遂げたのである。
翌63-64シーズンの欧州CCでは準々決勝で再びレアル・マドリードの軍門に下るとタイトルから遠ざかり始め、アルタフィーニやマルディーニが去り、ミランは勢いを落としたかにも思えた。
しかし、エースのリベラや監督のネレオ・ロッコは健在な上、西ドイツ代表の名ディフェンダーであるカールハインツ・シュネリンガーや、“キング・オブ・ドリブル”で知られるスウェーデン代表ウィングのクロト・ハムリンらを加えたチームは、1967-68シーズンに再び国内リーグで優勝すると同時に欧州カップウィナーズカップでも初優勝を飾ったのだった。
そして、この時代のハイライトともいえるのが1969年で、68-69シーズンに2度目となる欧州CC制覇を遂げると、前回はペレのサントスに勝てなかったインターコンチネンタルカップでもタイトルを手にする。年末にはミランの選手として初受賞となるバロン・ドールにリベラが輝くのであった。
1960年代といえば、国内リーグにはシボリ、チャールズ、ボニペルティで名高いユベントスに、スアレス、マッツォーラ、ファケッティの“グランデ”インテルがいた。
欧州カップでは、エウゼビオ、コルナを擁するベンフィカが快進撃をみせれば、チャールトン、ベスト、ローのマンチェスター・ユナイテッドが全盛期を迎え、ディステファノこそいなかったがヘント、アマンシオらを有するレアル・マドリードも抜け目なく力を発揮する。
そしてインターコンチネンタルカップでも、南米からはペレのサントスや黄金期のぺニャロールが勝ち上がってくるわけだから、本当に数多くのライバルが存在した時代だといえよう。そういった中での栄光の数々は、ファンに至上の喜びをもたらしたに違いない。
華やかな1960年代に対して、70年代のミランは低迷期に差し掛かっていたといえるかもしれない。イタリアサッカー協会が外国人選手の補強を禁止していたため、かつてのように新たな助っ人を加えることもできず、必然的に、多くの代表メンバーがプレーするユベントスへと国内タイトルは流れていった。
しかし、ベテランになってもクラブに残ったリベラを中心とするチームは、1972年に国内カップを制すと、翌年には国内カップと欧州カップウィナーズカップの2冠を達成してみせる。
久々の国内リーグ優勝を遂げたのは1978-79、記念すべき10回目のスクデットというだけでなく、様々な意味で節目となるシーズンだった。一つは、このタイトルを置き土産に、それまで長く貢献してきたロッソ・ネロの伝説ジャンニ・リベラが引退している。と同時に、13歳からミランのプリマベーラに所属し、これから長く貢献していくこととなるもう一人の伝説フランコ・バレージが初めてトップチームの主力になったシーズンでもある。(デビューは前のシーズンで1試合だけ出場している)
1980年代のACミランは短期間のうちに、他のビッグクラブでは考えられないほど激動に溢れた時期を経験した。まず、1980年に八百長が発覚し、セリエB降格処分を受け、80年代最初のシーズン(80-81)をクラブ史上初となる2部リーグで過ごすことになる。そのシーズンにすぐさまセリエBで優勝し、81-82シーズンはセリエAの舞台に戻ってくるが、話はそれだけでは終わらず、今度は成績不振で降格の憂き目に遭うのだった。
82-83シーズンに再びセリエBで優勝しセリエAに戻ってきてからのミランは、経営難に苦しみながら、83-84が8位、84-85が5位、85-86が7位と成績的にあまり目立つことないシーズンを送る。しかし、この85-86シーズンは以後の成功を予見させる重要な節目だったといえよう。
1986年2月、経営状況の悪化から破産寸前に陥っていた古豪ACミランを、メディア王シルビオ・ベルルスコーニが買収する。メディア業界で莫大な富を蓄え、約20年に渡りクラブの実権を握り続けている現イタリア共和国首相その人である。
また、様々な要職に就き今もクラブに尽力している現イタリアサッカー協会会長アドリアーノ・ガリアーニがベルルスコーニの誘いでフロント入りしたのもこのときだった。そして85-86は、レジェンドの一人に名を連ねるまでになった現キャプテンのパオロ・マルディーニが初めてトップチームの主力になったシーズンでもある。(デビューは前のシーズンで1試合だけ出場している)
新体制で初めて迎えた86-87シーズンを5位で終えると、早くもベルルスコーニはチームの大改造に着手する。当時、オランダ・リーグで大活躍し欧州中のビッグクラブから注目されていたフリットとファンバステンを一挙に補強すると、無名ながらセリエBのパルマを指揮し国内カップでミランに土をつけたアリゴ・サッキを監督に大抜擢する。
87-88シーズン、ファンバステンは怪我で出遅れたが、ピッチの内でも外でもそのカリスマぶりをいかんなく発揮したフリットは1987年のバロン・ドールに選出され、サッキのプレッシング・サッカーは瞬く間にイタリアを席巻し、ミランは9季ぶりとなる国内リーグ優勝を飾った。ミランのクラブ史に歴然と輝く第三期黄金期の幕開けである。
88-89シーズンにはライカールトも加入し、ご存知“オランダ・トリオ”が完成すると、バレージ、コスタクルタ、タソッティ、マルディーニで構えるDFラインも熟成度を増していき、サッキのミランは全盛期に突入する。欧州CCの準決勝で天敵だったレアル・マドリードを粉砕すると、そのままの勢いで20年ぶりの優勝まで辿りつく。
これだけでは終わらず、その年のトヨタカップに勝利すると、前回王者として出場した89-90シーズンの欧州CCでも再びレアル・マドリード、そしてバイエルン、決勝ではベンフィカといった強豪クラブを軒並み破り去り2連覇に成功するのであった。強烈なサッキ、華麗なオランダ・トリオ、完璧なDFラインばかりが強調されるが、彼らの潤滑油となっていたドナドーニ、アンチェロッティ、エバーニ、コロンボらイタリア人選手たちの貢献も忘れてはいけないだろう。
翌90-91シーズンも、まずはトヨタカップのタイトルを獲り、順調にいくかにみえたが、ことは簡単には進まず、国内リーグのタイトルを逃すと同時に、欧州CC準々決勝敗退、それも1年間の欧州カップ出場禁止というオマケまで付いてのものだった。負けている試合の終了前、ピッチで停電事故が起きたときに、ミランの選手は残り時間を放棄し早々にスタジアムを後にしたのだという。
当時、ミランのロッカールームは数々のタイトルによる満足感と厳格な指揮官に対するストレスで行き詰っていたというが、それが如実に現れてしまった一幕であったといえるかもしれない。こういった事情もあり、ベルルスコーニはシーズン終了をもってサッキをイタリア代表監督へ送り出す。後任に選ばれたのは前任者同様、監督経験の浅いファビオ・カペッロだった。
1987年に就任したサッキのミランを第三期黄金期の前半とするなら、1991年に就任したカペッロのそれは残りの後半部分にあたる。両者の共通項が監督キャリアの浅さであるなら、相違点は選手キャリアの有無であろう。
プロ経験がなく監督としてプロサッカー界に入ったサッキに対して、カペッロは現役時代にミランやユベントスに所属したMFでイタリア代表において32のキャップ数を誇る一流選手。こういった背景からか、サッキは厳格な戦術マニアであり、一方のカペッロは柔軟で選手の扱いが上手いともいわれる。
また、よく知った選手に自分のフットボール観を叩き込み理想とするフットボールを追求しようとしたサッキに対し、カペッロは内容に執着せず強力な選手の補強を重ねて自分はバランスのみを考えるというスタンスだった。この点では、熟成と同時にマンネリ化へと陥っていた当時の状況を考えると、ちょうど良かったのもかもしれない。
1991-92シーズン、欧州カップ不出場だったこともあり、カペッロのミランはリーグ戦に集中する。主要メンバーに変化はなかったが、新しい名将に率いられたチームは初シーズンを国内リーグ制覇で飾ったにとどまらず、何と、セリエA史上初の無敗優勝という快挙まで成し遂げてしまったのだ。これにより監督カペッロの名がイタリア全土に響き渡ったことはいうまでもない。
翌92-93シーズンにはカペッロらしい大胆な補強を行い、オランダ・トリオがいたにもかかわらず、1991年欧州最優秀選手であるフランス代表FWパパン、ユーゴスラビアの“ジュニオ(天才)”ことサビチェビッチ、クロアチアの英雄ボバンを獲得。もともとFW陣にはイタリア代表マルコ・シモーネや日本でもお馴染みのマッサーロらがいたし、そもそも出場可能な外国人枠が3名までだったことを考えれば、これは尋常ではない。さらにはレンティーニ、エラーニオ、ディナポリといったイタリア人選手たちも加入している。
世代交代を視野に入れつつ、2チーム分の戦力を有することとなった92-93のミランは、まさに額面通り、無敗記録を58試合まで伸ばして国内リーグ2連覇を飾ると、チャンピオンズカップから名称を変えたチャンピオンズリーグでも決勝進出を果たす。決勝でマルセイユに破れはしたが総合的には満足いくものであり、このシーズンと翌シーズンあたりがカペッロ率いるミランの絶頂期であったといえるだろう。
93-94シーズンになると、まずはオランダ・トリオが去る。そしてフランスの“ザ・ロック(岩)”ことデサイーがマルセイユから、のちにイタリア代表に選出されるパヌッチがジェノアから加入する。アルベルティーニも力を示し始めていたのもこの頃であった。中盤から前線にかけて大幅なメンバーの入れ替えを施しながらも、このシーズンは国内リーグ3連覇を達成するだけでなく、カペッロ政権において初となる欧州王者にも輝いている。
あのクライフ率いるバルセロナとの対戦となったチャンピオンズリーグ決勝前は、各メディアでミラン不利が報じられていた。それもそのはずである、相手はブラジル代表ロマリーオとブルガリア代表ストイチコフを擁するバルセロナ。彼らの実力は直後に行われた1994年W杯アメリカ大会でも示された通り。
一方のミランはオランダ・トリオがいないだけでなく、DFラインの真ん中2枚、つまりバレージとコスタクルタを出場停止で欠くという悲惨な状況。多くの人間が“才”の部分においても“運”の部分においても、ミランに分はないと考えていたのだった。
しかし、結果は周知の通り、ミランが4-0という歴史に残る大勝を飾るに至っている。注目の決勝では、“不運”にも国内リーグ最終戦の直後という厳しい日程で動きが鈍いバルセロナの選手たちを前に、ミランが誇るサビチェビッチという“才能”が存分に踊ったのだった。
94-95シーズンになると、パパンが去りディカーニオを補強する以外は主だったメンバー変更もなかったが、チームは下降線を描き出す。監督にリッピ、GMにモッジを迎えた新体制のユベントスが国内リーグ優勝を果たすと、ミランは国内で4位にとどまり、準優勝を遂げたチャンピオンズリーグにおいても、決勝とGLを含め、優勝したアヤックスと3戦して3敗という寂しい成績を残している。
95-96シーズンには“リベリアの怪人”ことジョージ・ウェアやユベントスを追われたロベルト・バッジョらを獲得し、チャンピオンズリーグで頂点に輝いたユベントスをかわす形で、国内リーグ優勝を果たすと、5シーズンに渡りクラブを率いたカペッロがレアル・マドリードへと去る。安定感を失っていたチームは、この指揮官の退団にDFライン高齢化なども相まって、とうとう長く続いた第三期黄金期の幕を閉じることとなった。
1996年にカペッロが去って以降の5年間は、混沌の時代であったといっていい。皮肉にもこれはベルルスコーニが政界で苦しんでいた時期と重なっている。サッカーの話に戻ると、多くのスター選手、もしくはスター候補生が加入しては、馴染む前に退団していった。また、チームを支えていた選手もそれぞれの理由で出て行くようになる。
96-97シーズン途中にカペッロを追う形でパヌッチがレアル・マドリードへ移籍すると、ミランの象徴であったバレージや長くチームに貢献していたタソッティもシーズン終了をもって勇退する。チームの成績は11位であった。
翌97-98シーズンも10位で、ベルルスコーニ就任以来、最悪の2シーズンを過ごす。98-99シーズンには単発だが、ザッケローニ新監督の下、ボバン、ウェア、鹿島にも所属したレオナルド、そしてドイツ代表ビアホフらが活躍し、国内リーグ優勝を遂げている。1999年には現在のエースであるウクライナの点取り屋シェフチェンコを組み込むが、チームがタイトルを獲るまでには至らなかった。
転機となったのは2001年、2002年、2003年と立て続けに行われた大補強だろう。2001年はちょうどベルルスコーニが首相に返り咲いた年でもある。まず、この年に莫大な移籍金を投資し、イタリア代表FWフィリッポ・インザーギ、ポルトガル代表MFルイ・コスタ、インテルで燻っていたMFピルロらを補強し、監督にはアンチェロッティを置いて、01-02シーズンの国内リーグで4位に入る。
そして2002年には、ブラジル代表の10番リバウド、オランダ代表MFセードルフ、イタリアが誇る世界最高峰のDFネスタ、クロアチア代表DFシミッチらを加えたチームは、守備面での安定とフィリッポ・インザーギの爆発的な活躍もあり、欧州CLで順調な滑り出しをみせると、終盤は運にも味方され、久々の欧州王者に輝くことに成功した。
決勝では、2000年のスペイン勢に次ぐ史上2度目の同国対決を実現したわけだが、逆側の厳しいトーナメント(レアル・マドリード、マンチェスター・ユナイテッド、バルセロナと同居していた)を戦った相手のユベントスは、すでにエースのネドベドを累積警告で失っていたのだった。しかしミランにとって、02-03シーズンの欧州CL優勝は、それ以降から始まる新しい時代の序章に過ぎなかったともいえる。
守備を重視する慎重な試合運びを見せることが多かった02-03までに比べ、03-04シーズンのミランは明らかに違っていた。ブラジル代表の攻撃的MFカカ、同じくブラジル代表の重鎮カフー、元イタリア代表のパンカロらを加えたミランは、このシーズンから絵に描いたような攻撃サッカーを展開することとなる。
足元の技術に秀でた選手を多く並べ、高いボール・ポゼッションを保ち、両サイドバックが盛んにオーバーラップを繰り広げる魅力的なゲームの数々は多くのサッカーファン、そして何より攻撃サッカー信望者であるベルルスコーニを喜ばせたことだろう。
若き天才カカが才能をいかんなく発揮し、中盤の底でピルロがタクトを振るえば、カフーやパンカロ(もしくはセルジーニョ)が相手陣内の深くまで走り込み、最前線ではシェフチェンコが抜群の決定力を発揮する。そしてシーズン最後には、5年ぶりとなる国内リーグ優勝を飾ったのだった。
しかし、攻撃的になれば、その分、守備は手薄になる。これがサッカーであるからして、徐々にミランも守備陣に負担が掛かり始める。それに対するベルルスコーニの答えが2004年のオランダ代表DFスタム獲得であろう。ネスタとスタム、世界屈指のCBを2枚に増やすことで、バランスを調整したかったようだ。さらにはレンタルでチェルシーからアルゼンチン代表FWクレスポまで補強している。
とはいえ、結局はDF陣全体の高齢化の波には勝てず、04-05シーズンのチームはあえなく無冠で終わる。国内リーグはユベントスに次ぐ2位。欧州CL決勝も内容は互角で、PK戦による決着だったが、シーズン終盤になってパフォーマンスを大きく落としていたことは明らかであり、今後の改善が望まれる。
新シーズンには、チェルシーへ復帰したクレスポの代わりにイタリア代表の新鋭ジラルディーノとベテランのビエリ、さらにはチェコ代表ヤンコロフスキ、スイス代表フォーゲルらを補強して選手層のアップを図り、昨季のリベンジを期待させている。
投稿者 kitamura : 14:49 | コメント (0)
インテル・ミラノ
《正式名称》 Internazionale Milano Football Club
《ユニフォームカラー》 青/黒
【本拠地】 ミラノ
【創立】 1908年
【スタジアム】 ジョゼッペ・メアッツァ (サン・シーロ)
【スタジアム収容人数】 83,679人
【国内タイトル】 国内リーグ:13回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:2回
【国際タイトル】 欧州CL:2回、UEFAカップ:3回、インターコンチネンタルカップ:2回
【過去の所属選手】 ジョゼッペ・メアッツァ、ベニート・ロレンツィ、ルイス・スアレス、ジャシント・ファケッティ、サンドロ・マッツォーラ
【現在の会長】 ジャシント・ファケッティ
【現在の監督】 ロベルト・マンチーニ
【現在の所属選手】 アドリアーノ、フィーゴ、ベロン、カンビアッソ、サネッティ
【昨季の成績】 国内リーグ3位、国内カップ優勝
イタリア北部のミラノに本拠を置く国内屈指の強豪クラブ。ユニフォームは青と黒の縦縞で、胸ロゴのメインスポンサー“PIRELLI(ピレッリ)”はイタリアを代表するタイヤメーカー。クラブの愛称は最も有名なものでユニフォームカラーの“ネッラズーリ(黒・青)”、ロゴやマスコットとしてチームのシンボル的な役割を担っている“ビッシオーネ(大蛇)”、また、愛するクラブを“恋人”にみたてた“La Benramata(ラ・ベネアマータ)”というものもある。ちなみに、シンボルマークの“Bissione(ビッシオーネ)”は13~15世紀にかけてミラノを支配していたビスコンティ家の紋章である大蛇に由来するもので、これはアルファ・ロメオもフロントグリルの一部に使用している。
国内ではユベントス、ACミランに次ぐ人気クラブ。地元ミラノだけにとどまらずイタリア各地に“インテリスタ”と呼ばれるサポーターを数多く抱え、現在ではその範囲を世界へと広げつつある。
欧州でも指折りの経営規模を誇り、常に多くのスター選手を抱えていることで知られる。また、100年近いクラブ史において、すでに様々なタイトルを獲得しており、その実績面から判断しても世界有数のビッグクラブだといえよう。イタリアで一度も1部リーグから降格したことのないクラブはインテルとユベントスの二つだけしかなく、このことから両者の対戦にはナショナル・ダービー(“イタリア・デルビー”)の称号が与えられている。
とはいえ、最大のライバルが同都市のACミランであることに変わりはなく、サポーターの熱が最高潮に達するゲームも、やはりミラノ・デルビーだろう。両チームのファン層には、富裕階級のインテル、労働者階級のACミランという構図があったといわれるが、現在、明確な境界線はなく、彼らはミラノに混在しているようだ。スタジアムはミラノ市からレンタルする形で長く共用していて、対戦前にフロント同士が罵り合うこともないが、サポーターのライバル意識だけはいまだ強烈である。
ホームのスタディオ・ジョゼッペ・メアッツァ(正式名称)は、元々ACミランの持ち物であり、名称もサン・シーロであった。しかし、ACミランがミラノ市へ売却して以降は共用するようになり、そのミラノ市が、1979年に地元出身の伝説的な名手ジョゼッペ・メアッツァが亡くなったことを受けて、翌年に名称を変更し、現在に至る。メアッツァはミラノに生まれ、インテルで長く活躍し、晩年にはACミランにも所属したイタリア代表史上屈指の国民的スター選手だが、育ちも引退もインテルであったため、今でもミランサポーターは、かつての名称サン・シーロと呼ぶようである。
ちなみに、1926年に完成したサン・シーロの着工を提案したのは、現インテルのメインスポンサー“PIRELLI”創業者であるピエロ・ピレッリだといわれ、彼はACミランの創設に関わった人物としても知られている。何かと交錯するインテルとACミランだが、これほど様々なエピソードで彩られたライバル同士も珍しいのではなかろうか。
インテルが創設されたのは1908年で、ACミランとの因縁関係が始まったのもこのときだった。というのも、ACミランの前身である「ミラン・アンド・クリケット・フットボール・クラブ(Milan Cricket and Football Club)」から分離独立してできた「インテルナツィオナーレ(Internazionale)」こそが、今のインテルなのだから……。
後者が誕生した原因は外国人選手の加入を巡る前者のクラブ内における対立で、その結果、外国人補強に対して肯定的だった少数派のグループは「国際的」という名前のクラブを設立し、初代キャプテンにスイス人マンキティを据えたのだった。今でも正式名称にACミランはカルチョを使用しているのに対して、インテルはフットボールを使用しているというのが両者の意思表示なのであろう。
インテルナツィオナーレとしてミラノに産声を上げてからわずか2年後の1909-10シーズンに早くもイタリアリーグを初制覇すると、1919-20に2度目、1929-30には3度目の優勝を遂げている。しかし、年代的な問題から資料は限られていて、また、時代的な背景により、当時の状況について語られる言葉には暗い話題も少なくない。
1914-15シーズン途中にヨーロッパは第一次世界大戦へと突入し、イタリアリーグも中断を余儀なくされる。再開された1919-20シーズン、インテルナツィオナーレは見事に2度目の優勝を飾るわけだが、そこには就任初年度にクラブ史上初のリーグ優勝へと導き、以後もクラブを率いていたビルジリオ・フォサッティ監督の姿はなかった。彼は戦渦で命を失っていたのである。
続く1920~40年代のイタリアはファシズムの時代。ムッソリーニ政権下で多大なる恩恵を被ったのがイタリア代表なら、不要な弾圧に晒されたのがインテルであった。ムッソリーニのファシスト党は1922年に政権を握り、1926年には一党独裁を確立。ファシズムが掲げるものとは国家主義・民族主義であり、それは外国人の排斥である。そんな中、“国際的”となるチーム名で伝統的に外国人選手へ寛容な態度を示し続けてきたインテルナツィオナーレが政府から目の仇にされたというのは言うまでもないことだろう。1928年にはファシスト政権の圧力により「ミラネーゼ・ユニオン・スポルティーバ(Milanese Unione Sportiva)」と強制的に合併させられ、クラブ名を「アンブロシアーナ・インテル(Ambrosiana Inter)」に、そして青黒のユニフォームも白地に赤十字という配色(ミラノ市の紋章より採用)に変更させられてしまう。1929-30シーズンにインテルが3度目の優勝を果たしたときには、すでにインテルナツィオナーレではなくアンブロシアーナであった。サポーターたちの抗議でユニフォームこそ数年後に元の青黒へと戻るがアンブロシアーナの名前は1945年、つまり第二次世界大戦が終結しファシスト党が解体するときまで続くことになる。
もちろんこの期間がインテルにとって悲しい出来事ばかりで埋め尽くされていたわけではない。1927年9月25日に弱冠17歳でデビューした神童によって、以後の約11年間、ファンは彼の素晴らしいプレーに歓喜し、チームもいくつかのトロフィーを手にすることができた。
現在もスタジアムにその名を残す英雄は最初の1927-28シーズンに11個のゴールを挙げると、1929-30にはチームをリーグ優勝へと導き、自身も31ゴールで得点王に輝いている。メアッツァは1935-36にもリーグのトップスコアラーとなり、1937-38には再びスクデットと得点王のダブルタイトルを手にすることに成功した。晩年は怪我に苦しみ、1938-39に国内カップの初制覇へ貢献すると、翌1939-40はリーグ戦のピッチに一度も立つことのないまま、シーズン終了後に隣のライバル・クラブへ去ることとなる。しかし、彼は疑いなくインテルの象徴であり、実際、1946-47にはチームへ復帰し、1シーズンだけプレーして引退するのだった。
すでにメアッツァを欠いていたチームはメアッツァ不在の1939-40シーズンにも優勝を果たしたが、このとき、ちょうどイタリアがナチス・ドイツと同盟を結ぶなど、サッカーも戦争の影響を免れなくなってくる。1943年になるとリーグは中断し、どのクラブも1945年の戦争終結を待った。
1945-46からリーグは再開され、クラブは約17年ぶりに“インテルナツィオナーレ”と名乗ることを許される。サポーターが心待ちにした瞬間だったに違いない。次の望みは、伝統のチーム名で久々のリーグ制覇を果たすことであったのだろうが、1940年代後半はトリノ全盛の時代で、インテリスタはもう少し待たねばならなかった。
1950年代に入ると、アルフレード・フォーニ監督の下、メアッツァ以来のアイドルだった“ベレーノ(毒)”ことベニート・ロレンツィやスウェーデン人MFスコグルンド、ハンガリーのステファノ・ニエルスらを擁したチームが、国内リーグで連覇(1952-53、1953-54)を成し遂げる。このように偉大な選手を有し、タイトルを獲り、国内有数の地位を固めていったインテルだが、今なおクラブ史に歴然と輝く本当の栄光が訪れたのは1960年代だろう。
1955年、マッシモの父であるアンジェロ・モラッティが会長に就任する。マッシモとは現在、インテルのオーナーを務めているマッシモ・モラッティだ。アンジェロは一代で莫大な富を築いた石油商で、クラブを買い取ってからは巨額の資産を投入していく。一つ目の投資は1960年、スペインのバルセロナを率いて、ディステファノ擁するレアル・マドリードを相手に国内外で多くのタイトルを獲得していたアルゼンチン人の名将エレニオ・エレーラ。そして二つ目の投資は1961年、同じくスペインのバルセロナで1960年度の欧州最優秀選手に選出されていたスペイン人MFルイス・スアレス。
イタリアの伝統的な守備戦術である“カテナチオ”を完成させた人物として知られる“マーゴ(魔術師)”ことエレーラが監督に就任した最初のシーズンである1960-61に、インテルは国内リーグ3位、欧州フェアーズカップ準決勝進出というまずまずの好成績を収める。当時のチームにはすでにマリオ・コルソという天才肌のイタリア人MFがいたが、翌年、エレーラはバルセロナ時代の教え子で、後にインテル史上最高の10番と評されることになるスアレスの獲得をフロントに強く要請する。アンジェロはそれに答える形で、当時、世界で史上最高額となる移籍金をバルセロナへ支払うのだった。
翌1961-62シーズン、鳴り物入りでやってきたスアレスは中盤の指揮官でありながら期待通りの素晴らしい活躍(国内リーグ27試合11得点、欧州カップ5試合4得点)をみせ、チームは前年より一つ順位を上げる。(国内リーグ2位、欧州フェアーズカップ準々決勝進出)また、イタリア代表歴代最高のキャプテンにして世界のサッカー史にもその名を残す伝説的な左SBジャシント・ファケッティが、デビュー2年目でスタメンに定着し出したのもこの頃だった。
初めの2シーズンはタイトルに手が届かなかったエレーラのインテルだが、チーム力は着実に上がっていく。特筆すべきは、核となる選手の補強、組織の熟成、そして下部組織からの抜粋。これらが1962-63シーズンに目に見える形で開花し、チームはエレーラ監督下で初タイトルとなる国内リーグ優勝を果たす。あのディステファノにして“アルキテクト(建築家)”と言わしめた司令塔スアレスを軸に、最終ラインでピッキ、グアルネリ、ブルグニッキ、ファケッティが“カテナチオ”を形成すると、前線では左利きのテクニシャンであるコルソや新加入のブラジル人FWジャイールらが暴れた。
そしてこのシーズンと以降の成功を語る上で、忘れてはならないのが“イル・ボッファ(口ひげ)”の愛称で親しまれた名選手サンドロ・マッツォーラの登場である。トリノの栄光を支えた伝説の人物バレンティノ・マッツォーラを父に持つこの偉大で万能なゲームメイカーは、インテルの下部組織で育ち、前年までに2試合の出場経験を積んでから、1962-63シーズンに初めて主力に名を連ねると、20歳にして23試合に出場し10得点を挙げた。後方にスアレスがいたこともあり、若い頃はトップに近いポジションでプレーし多くのゴールをマークし、晩年は中盤に下がり司令塔として活躍すると、1977年に引退するまでの間、長くインテルNo.1アイドル選手の座に君臨する。
ディフェンディング・チャンピオンとして迎えた1963-64シーズン、さらに勢いを増したエレーラのインテルは、国内リーグこそボローニャにプレーオフで破れて2位に甘んじたが、今度は欧州で最高の栄誉であるチャンピオンズカップ優勝を遂げた。
主要メンバーに変化はないが、カテナチオと恐れられた前述のDFラインは最高レベルに達していたといえる。また、中盤のスアレスはより深い位置に下がり、素晴らしいゲームメイクを披露した。その理由は、前線で新しいスター選手が完全にその才能を開花させたからである。1シーズン前にスタメンを掴んだばかりの若きマッツォーラは、とりわけ欧州CCで合計7ゴールを挙げ、大会得点王に名を連ねたのだった。決勝では5度の優勝を誇るレアル・マドリード相手に3-1のスコアで勝利しているが、そのうち2得点はマッツォーラのマークしたものである。
こうして国内と欧州を制したインテルは、1960年から始まりまだヨーロッパ勢でレアル・マドリードしか獲っていないタイトル、インターコンチネンタルカップを1964年に初めてイタリアへ持ち帰るのだった。クラブ史に歴然と輝く“グランデ・インテル”の誕生である。
世界の頂点に立ったグランデ・インテルに穴らしきものは見当たらなかったが、1964-65シーズンは、前線にスペイン人FWホアキン・ペイロらを加え、さらに強力な布陣を揃えた。そして最終的にこの年のチームは前年以上の偉業を達成する。まず国内リーグのタイトルを獲ると、次に名門ベンフィカを決勝で破り欧州CCを連覇。そして迎えたインターコンチネンタルカップでも連覇を遂げたのだった。
全盛期を謳歌するグランデ・インテルは、1965-66に国内リーグ連覇を果たし、欧州CCでも準決勝に進出。ネッラズーリの時代はまだまだ長く続くものと思われた。しかし、次の1966-67は国内リーグで2位となり、欧州CCにおいても決勝で敗退してしまう。そして5シーズンぶりに無冠で終わったことからか、チームの歯車は徐々に狂い出すのだった。
成績不振により1967-68をもって名将エレニオ・エレーラがクラブから去ると、チームはタイトルへ手が届かなくなり、1970年にはスアレスも退団する。とはいえイタリア代表で10番を背負うマッツォーラ、キャプテンマークを巻くファケッティらは健在で、1970-71には最後の意地を見せる形でスクデットを獲得した。しかし、あの偉大なインテルが戻ることはなく、クラブは長い低迷期へと突入するのだった。
1970年代~80年代半ばまでのイタリアはユベントスの時代であった。インテルは1971年の優勝以後、目立った成績を残せず、またイタリアサッカー協会が外国人選手の加入を禁止していたので、スター選手を補強できないまま、コルソ、マッツォーラ、ファケッティといったレジェンドたちを失っていく。新しい世代の主力であるFWアルトベッリ、MFオリアリ、ベッカロッシ、DFジョゼッペ・バレージらを擁し、1977-78に国内カップ、1979-80に国内リーグのタイトルを獲るが、黄金時代を再現することはできなかった。
サッカー協会が外国人選手の補強を認めていなかった1970年代とは対照的に、1980年代、特に後半のイタリアは世界を代表するスター選手で彩られる。インテルも例外ではなく、トラパットーニ監督の下、ピッチ内外で注目を集めた名GKゼンガ、キャプテンのジョゼッペ・バレージ、後に全てのカテゴリーでインテル史上最多出場記録を作ったDFベルゴミ、得点王に輝くアルド・セレーナ、攻守に活躍するMFニコラ・ベルティといったイタリア代表クラスの選手たちに、アルゼンチン代表のFWラモン・ディアス、ドイツ代表の名手たち、マテウス、ブレーメという3人の外国人選手を加えたチームは、1988-89シーズンにスクデットを獲得した。
1989-90にはラモン・ディアスを放出し、インテリスタにして“黄金の戦車”と称されたクリンスマンを加える。1990年W杯優勝メンバーから成るドイツ・トライアングルが完成し、すぐにUEFAカップ優勝、国内リーグ3位という結果を残した。しかし、このときも黄金期を築くことはできず、クラブ内部で分裂が生まれたこともあり、1992年にドイツ・トライアングルは揃ってチームを去っている。
彼らに代わり加わったのは“ゴールの詩人”ことウルグアイ代表FWルーベン・ソサで、以後、3シーズンに渡りチームに貢献しファンからも愛された。1993-94には二人の新加入オランダ人選手、FWベルカンプ、MFヨンクらの活躍で再びUEFAカップを制しているが、いずれの外国人選手も長く馴染むことはできず、チームも方向性を見出せない状態が続くのだった。
1995年、グランデ・インテルを生んだ偉大なる会長アンジェロ・モラッティの実子であり、現在もオーナーを務めているマッシモ・モラッティがクラブを買い取り、会長職へ就くと、選手の出入りはさらに激しくなっていく。マッシモが会長を務めた2003-04シーズン途中までの約9年間、クラブは約5億ユーロ(現レートで約700億円)の金額を費やし、111名の選手を補強した。
イタリア代表のロベルト・バッジョ、ビエリ、パヌッチ、ファビオ・カンナバーロ、ブラジル代表のロナウド、ロベルト・カルロス、アドリアーノ、フランス代表のジョルカエフ、ブラン、イングランド代表のインス、チリ代表のサモラーノ、ウルグアイ代表のレコバ、そしてアルゼンチン代表のサネッティ、シメオネ、アルメイダ、クレスポ、バティストゥータなど、スター選手の名前を挙げれば枚挙に暇がない。一方で、この期間にクラブが獲得したタイトルの数は1997-98シーズンのUEFAカップたった1個だったというのは本当に皮肉である。
最初のうちはインテルを愛する姿勢や人間味溢れる言動から好意的に受け入れられていたマッシモ・モラッティだが、クラブを統括し運営していく才能には欠けていたようだ。上に並んだビッグネームのほとんどが他クラブや代表チームで優勝カップを掲げているという事実は、当時のインテルの失策を証明しているといえよう。
2004年にマッシモ・モラッティが会長の座をファケッティに譲り、チームの運営方針も近年は徐々に変化してきている。かつてのように一人の選手へ大金を費やすことはなく、全体的なバランスを重視したチーム作りをコンセプトに置いているようだ。傾向としては、イタリア人選手の減少が挙げられ、逆に南米選手の多さは特筆に値する。スタメンのほぼ全員が南米出身選手で占められることも珍しくない。
新シーズンは、マンチーニ監督の下、エースのブラジル代表アドリアーノ、中盤のアルゼンチン人コンビであるカンビアッソ、ベロン、長くキャプテンを務める同じアルゼンチンのサネッティといった面々に、ポルトガルが誇る2000年度の欧州最優秀選手フィーゴを加え、虎視眈々とタイトル獲得の機会を窺っている。
投稿者 kitamura : 14:32 | コメント (0)
サンプドリア
《正式名称》 Sampdoria Unione Calcio
《ユニフォームカラー》 青/白
【本拠地】 ジェノバ
【創立】 1946年
【スタジアム】 ルイジ・フェラリス
【スタジアム収容人数】 40,117人
【国内タイトル】 国内リーグ:1回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の所属選手】 ロベルト・マンチーニ、ビエルコウッド、ビアリ、パリュウカ、トニーニョ・セレーゾ
【現在の会長】 リカルド・ガローネ
【現在の監督】 ワルテル・ノベッリーニ
【現在の所属選手】 ボナッツォーリ、フラーキ、ディアナ、クリスティアーノ・ゼノーニ、アントニオーリ
【昨季の成績】 国内リーグ5位
サンプドリアはイタリア北部の港湾都市ジェノバに本拠を置く国内有数の強豪クラブ。愛称はユニフォームカラーに因んだ“ブルーチェルキアッティ”(青の輪)。約60年の歴史を誇るが、トリノ、ミラノ、ローマのクラブや同都市のライバルであるジェノア1893らと比較すれば、いまだ新興クラブの部類に入る。
とりわけジェノア1893はイタリアで最も長い歴史を持つ国内随一の古豪クラブであり、その存在がサンプドリアの新しさを一層強めて見せるのかもしれない。“ジェノア”とはジェノバの英語読みで、これはミラン(ミラノの英語読み)がそう名乗っているのと同じ理由だ。英国人から伝えられたフットボール創世記のネーミングを現在も受け継いでいるということだろう。“1893”とは創立年であり、これも誇りの表れである。
この両チームは、他のイタリアのクラブ同様にスタジアムこそルイジ・フェラリスを共用しているが、サポーターの層は二分されているといわれる。ジェノアは労働者階級に強く支持され、一方、サンプドリアは中流階級、ブルジョワ階級に人気があるようだ。両者が対戦するジェノバ・ダービーはイタリアで最も危険なダービーマッチの一つとして知られている。
しかし昨今、ジェノア1893の低迷で、このダービーが1部リーグで観られることは少なくなっている。ジェノア1893は“カズ”こと三浦知良が所属していたので日本においてもそれなりの知名度があるが、実際、近年の実績ではサンプドリアに分があるといえよう。
サンプドリアが創設されたのは1946年で、サンピエルダレネーゼとアンドレア・ドリアが合併して誕生した。他の強豪クラブに大きく遅れてスタートしたサンプドリアが、イタリアで確固たる地位を築き上げたのは1980年代。現在、クラブはいくつかの素晴らしいトロフィーを誇ることができるが、その多くは80年代後半~90年代前半に手にしたものである。
栄光を掴む契機となったのは1982年だろう。まず国内一の名門ユベントスから左利きのアイルランド代表MFリアム・ブレイディを獲得。かつてアーセナルやユベントスで多くの優勝カップを掲げた有名選手が弱小クラブへ移籍したことに多くの人間が驚いた。しかし、その後、周囲をもっと驚かせたのはもう一人の左利きの天才少年のほうであった。
1981-82シーズン、弱冠16歳でセリエAにデビューし、いきなり9得点を挙げた天才イタリア人FWは、この年にボローニャからサンプドリアへ加入し、1997年にラツィオへ去るまで、長い間その創造性溢れるプレーの数々でクラブに大きく貢献する。サンプドリアはいまだマンチーニなしでタイトルを獲得したことがない。彼が“ミスター・サンプドリア”と呼ばれるのも当然であろう。ロベルト・マンチーニ加入後、伝統のない新興クラブ・サンプドリアは一歩一歩階段を上っていくのだった。
二人の名手を得たサンプドリアは、翌年に、1990年代のセリエAで鉄人ディフェンダーとして名を馳せたビエルコウッド(1983~94年在籍)を獲得。そして迎えた1983-84シーズン、念願のクラブ初タイトルとなるコパ・イタリア優勝を遂げる。
このシーズンでブレイディがイングランドリーグへ復帰するが、代わりに名門リバプールからスコットランド代表MFスーネス(84~86年在籍)を補強し、さらにジャンルカ・ビアリ(84~92年在籍)という後のイタリア代表FWを加えることにも成功。特筆すべきは後者のほうだろう。マンチーニ&ビアリ、クラブ史に残る名コンビの誕生である。以後、魅惑的なファンタジスタとアクロバチックな点取り屋は抜群のコンビネーションを発揮し、サンプドリアというクラブの成長と共に自らのキャリアを築いていった。
1986年には若きパリュウカ(1986~94年在籍)がボローニャからやって来る。と同時に、ユーゴスラビア人監督ブヤディン・ボシュコフが就任した年でもあった。すでにユーゴスラビア代表やレアル・マドリードなどを率いたことのある知将の経験は、若く将来性豊かなチームにとって大きなプラスとなり、1992年に彼がクラブを去るまでの期間、サンプドリアは黄金期を謳歌する。
ブラジルが誇る“黄金のカルテット”の一人トニーニョ・セレーゾ(87~92年在籍)を加えた87-88シーズンに2回目となるコパ・イタリア制覇を飾ると、このタイトルを皮切りに、サンプドリアは着々と優勝カップのコレクションを増やしていった。イタリアのカップ戦王者として出場した88-89の欧州カップウィナーズカップでは決勝に進出し、このときは0-2でスペインの強豪バルセロナの前に屈するが、再びこの年のコパ・イタリアを制覇。そして前年のリベンジを果たすべく挑んだ89-90の欧州カップウィナーズカップではベルギーのアンドルレヒトを2-0で破り見事に優勝を遂げたのだった。
国内外でのカップ戦で抜群の強さを発揮し、名門の地位を築こうとしていたサンプドリアだが、やはりイタリア屈指の強豪クラブを名乗るには足りないタイトルが一つある。それは他でもない国内リーグでの優勝、通称スクデット。
当時のセリエAは世界最強リーグを自負していただけあり、1986年W杯を制したマラドーナ、1988年欧州選手権で母国に初のタイトルをもたらしたオランダ・トリオ、そして1990年W杯イタリア大会で優勝したドイツ・トライアングルなど、世界を代表する外国人スター選手で溢れていた。そういったライバルたち全てと同じ条件で凌ぎを削らなければならないリーグ戦における優勝は、つい数年前に初タイトルを手にしたばかりの新興クラブにとって至難の業であることはいうまでもない。しかしその時は意外にも早く訪れた。
まだ自国開催W杯の余韻が醒めない90-91シーズンの国内リーグ戦、マンチーニとビアリのイタリア人コンビは前線で素晴らしい活躍を披露し、チーム合計57得点(全チーム中最多)のうち、二人だけで31得点を叩き出す。サンプドリアはクラブ初のセリエA優勝を遂げ、19ゴールを挙げたビアリは得点王に、そしてマンチーニはリーグMVPに輝いたのだった。二枚看板の他にも、スーパーサブのFWブランカ、右サイドのロンバルドとマンニーニ、最終ラインのビエルコウッド、守護神パリュウカらイタリア人選手を中核に据えてリーグを制したサンプドリアが、当時のセリエAで異彩を放っていたことは言うまでもない。
続く91-92シーズンも国内スーパーカップを制して幸先良くスタートする。だが、優勝するのと同じくらい、もしくはそれ以上に連覇することは難しい。それが優勝慣れしていない新興クラブであれば尚更である。また、ヨーロッパ中の各国王者がそうであったようにサンプドリアの選手たちの気持ちも、この年は選ばれたものにしか与えられない挑戦権のほうへ向かっていた。王者のみが参加できる大会、チャンピオンズカップである。
国内リーグでは前年の雪辱を晴らすべく首位を快走するACミランに大きく離されたが、欧州CCでのサンプドリアは順調に駒を進めていった。そして驚くことに初出場にして決勝まで登り詰めたのである。決勝戦の相手は3年前に欧州カップウィナーズカップ決勝で対戦し破れた因縁のバルセロナ。この試合は健闘するも、延長戦の末、0-1というスコアで準優勝に甘んじた。しかし、欧州CC決勝進出がクラブ史に残る輝かしい出来事であったことに変わりはない。
1983-84シーズンのコパ・イタリア優勝から1991-92シーズンの欧州CC決勝進出まで、とんとん拍子で階段を駆け上がってきたサンプドリアだが、1992年以降は下降線を辿ることになる。91-92を国内5位で終えると、エースのビアリ、DFのビエルコウッドが揃ってユベントスに引き抜かれ、トニーニョ・セレーゾはブラジルに帰り、長くクラブを指揮してきたボシュコフもASローマへと去っていった。
スウェーデン人のスベン・ゴラン・エリクソン監督を招聘した92-93のチームは、マンチーニが孤軍奮闘するも、国内7位に終わる。93-94シーズンはオランダの天才ルート・フリット、イングランド代表MFデビッド・プラット(共に93~95年在籍)という二人の名手を加え、復調し、国内リーグ3位、コパ・イタリア優勝という好成績を残した。
しかし翌94-95は国内8位、欧州カップウィナーズカップもベスト4で敗退し、フリットとプラットが去る。95-96は新加入のイタリア人FWキエーザが22得点を挙げたが、チームは再び8位。96-97は、2部にいるジェノア1893から引き抜いたモンテッラが22ゴールをマークし、チームも5位になったが、シーズン後には、エリクソン監督だけでなくマンチーニまでもがラツィオへ去ってしまう。“ミスター・サンプドリア”が最後のシーズンに残した数字、33試合15得点はいずれも自己最高のものであった。
支柱を失ったサンプドリアは、偉大なる監督ボシュコフを呼び戻し、97-98シーズンを何とか国内9位という成績で持ちこたえる。だが、この頃の主力だったミハイロビッチやベロンがエリクソンを追うようにしてラツィオへ、さらにはボシュコフをも失った98-99シーズン、サンプドリアはとうとう完全崩壊し、16位でセリエB降格という最悪な結果に行き着いてしまうのだった。
1999年から4シーズンを2部にて過ごしたサンプドリアは、2002-03シーズンにセリエBで2位となり、念願のセリエA復帰を果たす。迎えた03-04シーズンは8位となり、まずまずの成績を残した。
04-05シーズンには5位まで順位を上げ、久々の欧州カップ出場権(UEFAカップ)も獲得。かつて強豪の一角に数えられた新興クラブは、今か今かと復権の機会を窺っている。
投稿者 kitamura : 14:21 | コメント (0)
ASローマ
《正式名称》 Associazione Sportiva Roma
《ユニフォームカラー》 エンジ
【本拠地】 ローマ
【創立】 1927年
【スタジアム】 オリンピコ
【スタジアム収容人数】 80,558人
【国内タイトル】 国内リーグ:3回、国内カップ:7回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 UEFAカップ:1回
【過去の所属選手】 アマデイ、ディ・バルトロメイ、コンティ、ファルカン、ジャンニーニ
【現在の会長】 フランチェスコ・センシ
【現在の監督】 ルチアーノ・スパレッティ
【現在の所属選手】 トッティ、モンテッラ、デ・ロッシ、キブ、メクセス
【昨季の成績】 国内リーグ8位
イタリアの首都ローマ市を本拠地とするASローマは、中田英寿が所属していたこともあり、日本でもよく知られている名門クラブ。オリンピコの客席をエンジ色で埋め尽くし声を荒げながら熱狂的に旗を振るサポーターたちの姿は“永遠の都”ローマのイメージと重なる。
気候の温暖さも相まってか、大衆が醸し出す情熱的で奔放な雰囲気は、イタリア北部のクラブにはない独特のものだといえよう。逆にタイトルの数では、北部の強豪クラブに大きく劣るというのもまた事実であるのだが……。おそらくイタリアリーグにおけるASローマの位置は、北部以外のクラブの中で最も成功している人気チームといったところだろう。
ローマ市にはもう一つSSラツィオというビッグクラブが存在し、実績的に大きな差のない両者は長年拮抗したライバル関係を保っている。街を二分するローマ・ダービーはイタリアで最も注目されるダービーマッチの一つとなっているが、人気面ではASローマが勝っているようだ。思想や階級ではSSラツィオが一部の過激な極右サポーターで知られ、ASローマのほうは庶民のクラブという印象を持たれている。しかし、かの独裁者ムッソリーニはASローマがお気に入りチームであったといわれている。
実質的には、クラブ名の影響からか、ASローマはローマ市内で圧倒的な人気を誇り、一方、SSラツィオのサポーターはローマ市外各地、ラツィオ州全域に点在しているとのこと。
ちなみに、ASローマのチームカラー“ジャッロロッソ(黄色と赤)”は、カンピドリオのシンボルカラーに由来している。ローマ市のエンブレムも同じ配色。名高き“ローマの七つの丘”の一つ“カンピドリオ”は古代ローマの中心地区であり、現在そこにはローマ市庁舎や美術館が建ち並んでいる。また、ASローマのエンブレムにある狼とその乳を吸う兄弟は古代ローマ建国時の逸話をモデルにしているそうだ。こう見ていくとASローマがローマ市を象徴するクラブになったのは必然なのかもしれない。
国内有数の人気クラブとなったASローマだが、意外なことに創立したのは他の強豪クラブよりかなり遅い1927年のこと。のちにライバルとなるSSラツィオに遅れること27年、ASローマは「Associazione Sportiva Roma」として発足すると、すぐに上位へ顔を出し始める。最初のシーズンが8位で、次が3位、1930年代にはリーグ2位になること2回(1931、1936年)。当時の主力にはアティリオ・フェラリスやフルビオ・ベルナルディーニといった選手がいる。
産声を上げて間もないASローマだったが、1941-42シーズンにはクラブ設立14年目にしてリーグ優勝を遂げた。オーストリア系ハンガリー人アルフレッド・シェッファー監督の下、優勝チームは地元出身のアイドル選手であるアメデオ・アマデイを筆頭に、異色のアルバニア人FWクリエジウら優秀な攻撃陣を揃えていたといわれる。しかし、ムッソリーニ独裁政権下における首都のクラブのリーグ制覇は、現在あまり良い印象をもって受け入れていないようだ。
とんとん拍子で栄冠まで登り詰めたASローマだが、次のシーズンからは(イタリアの他のどのクラブもそうであったように)ただただ“グランデ・トリノ”の背中を眺めるだけとなる。1940年代のトリノは第二次大戦をはさみ5連覇を達成し、彼らが飛行機事故で戦力を失った頃には、ASローマのほうも完全に衰退してしまっていた。1942年のリーグ覇者は、数シーズンの低迷後、1951年にとうとうクラブ史上唯一のセリエB降格を経験する。
下部リーグでの生活を最小限にとどめ1952年には昇格を決めたASローマだったが、以後、1950~60年代にかけてそれぞれ華やかな時期を過ごしたユベントス、ACミラン、インテルミラノの牙城を崩すことはできなかった。この頃に加入したスター選手へ目を向けると、ACミランから1956年に伝説的スウェーデン人FWノルダール、1960年にウルグアイの英雄スキアフィーノ、ユベントスからは1962年にウェールズの巨漢FWジョン・チャールズ、1970年に“元”スペイン代表ルイス・デル・ソルを獲得している。彼らに共通していることは、年齢が30代であったことと、ASローマに1~2シーズンしか在籍しなかったということだった。
監督では1959年にイタリア人アルフレッド・フォーニ、1966年にはアルゼンチンの魔術師エレニオ・エレーラと契約している。1950年代にインテルを率いて2度の国内リーグ優勝を飾ったフォーニは、ASローマで2季目の60-61シーズンにクラブ初、そして現在でも唯一の欧州カップ獲得となるフェアーズカップ(UEFAカップの前身)優勝を果たした。1960年代にグランデ・インテルを築き上げたエレーラは、ASローマで3季目の68-69シーズンにコパ・イタリアを制している。しかし、ASローマ時代の彼らに共通していたのは、インテルミラノを率いていた頃ほどの名声を得られなかったということだろう。
久しくリーグで優勝争いに参加することなく、いくつかのカップタイトルで存在感を示すにとどまっていた首都のクラブに転機が訪れたのは1970年代中頃。かつて現役時代にスウェーデン代表やACミランで活躍したニルス・リードホルムが、73-74シーズン途中に監督へ就任すると、74-75のASローマは22年ぶりにリーグ3位という好成績を挙げる。このクラブの歴史を紐解くとき、選手よりも監督の存在を追っていくほうが分かりやすいのかもしれない。
リードホルムは77年に一時ミラノへ帰り、ACミランに11年ぶりのスクデットをもたらした直後の1979年には再びローマへ戻ってくる。そしてこのときを境にASローマの黄金期は幕を開けるのだった。
まず、79-80のチームはリーグこそ7位に甘んじるも、コパ・イタリアでは優勝する。主軸となりつつあったローマ生まれの名手ディ・バルトロメイ(72~75、76~84所属)、レンタルから帰還した同じく地元出身のアイドル選手ブルーノ・コンティ(73~75、76~78、79~91所属)、80年代に3度のリーグ得点王へ輝く点取り屋ロベルト・プルッツォ(78~88所属)、才能溢れる若手MFカルロ・アンチェロッティ(79~87所属)ら、すでに優れたイタリア人選手を多く有していた。
続く80-81シーズンにはブラジル代表の大物MFファルカンを加え、さらに勢いを増していき、国内リーグで2位まで順位を上げると、国内カップでは連覇に成功する。81-82は国内リーグ3位に終わるが、ロマニスタが長く失望する必要はなかった。翌82-83にチームは念願となるリーグ制覇を果たしたからである。優勝メンバーには上記の選手たちに加え、オーストリア代表MFヘルベルト・プロハスカや、ビエルコウッド、マルデーラといったイタリア人選手たちが名を連ねていた。
41年ぶりのスクデットに酔いしれたローマサポーターたちの幸福はあと1年ほど続く。逆にいえば83-84をもって一つの時代が終わることをそれは意味する。このシーズンもASローマは快調で、ファルカンに続きブラジル代表MFトニーニョ・セレーゾ(83~86年所属)を補強したチームは、国内リーグ2位、国内カップ優勝という成果を挙げた。しかし、結果的に1984年5月30日の欧州CC決勝でリバプールに敗れたことがそれら全てを台無しにしてしまったようである。PK戦による敗退であったこと、さらに決勝の地がオリンピコであったことは、ファンを一層落胆させる一因となったに違いない。これをもって名将リードホルムは愛弟子ディ・バルトロメイと共にACミランへ去っていった。
スベン・ゴラン・エリクソンが率いた84-85(国内リーグ7位)、85-86(国内リーグ2位、国内カップ優勝)は悪くない成績である。1985年に英雄ファルカンは去るが、入れ替わりで加わったポーランド代表ボニエク(85~88所属)や、黄金期後のASローマを象徴するアイドル選手“プリンチペ(王子)”ことジョゼッペ・ジャンニーニ(81~96所属)が攻撃を引っ張った。ドイツ代表のスターFWフェラー(87~92所属)を獲得し、監督にリードホルムが復帰した87-88にも、チームは国内リーグで3位というまずまずの位置につけている。しかし、いずれの場合も黄金期の栄光とその嫌な終わり方を忘れさせるには至らなかった。
クラブチームを語る上で、選手、監督、そしてもう一つ忘れてはならないのが会長だろう。1979年に就任し、今でもロマニスタの記憶に残る偉大なチームを作り上げたディノ・ビオラは、1991年、自らの死によってクラブを手放すことになった。90-91シーズン、チームは彼へ捧げるかのようにコパ・イタリアを制している。そしてこれはASローマにとって20世紀最後のタイトルになった。
そのディノ・ビオラ以降、長く会長に就任した人物は一人しかいない。1993年から現在までその椅子に座り続けているフランチェスコ・センシである。近年のASローマは、莫大な資産を有する彼と、ピッチで絶大な影響力を放つもう一方のフランチェスコ、この二人のチームだといえよう。
後にジャンニーニを継ぎクラブの新しい“プリンチペ”となるフランチェスコ・トッティが1部デビューを飾ったのも、ちょうど1993年だった。弱冠16歳でセリエAの舞台に立ったトッティは、自身が尊敬するジャンニーニ、ドイツ代表の天才MFへスラー(91~94所属)、アルゼンチン代表のカニーヒア(92~94所属)とバルボ(93~98、00~02所属)、ウルグアイ代表FWフォンセカ(94~97所属)らがいるチームの中で徐々に存在感を示し始める。そして毎年チーム強化のためクラブへ資金を注入するセンシ会長の期待に応えるかのごとく、ASローマを象徴するプレイヤーとして成長していくのだった。
二人のフランチェスコによる新生ASローマは、二人の個性的な監督を雇っている。アグレッシブなサッカーと歯に衣着せぬ発言で知られるチェコ人監督ゼーマンは、クラブを97-98(4位)、98-99(5位)の2シーズン指揮してチームに攻撃的な精神を植えつけた。そしてゼーマンの後に就任したのが、すでにミラノやマドリードで名声を手にしていたイタリア人ファビオ・カペッロ。前任者とは対照的に手堅いサッカーを身上とする新監督が率いた5シーズン、クラブは素晴らしい時期を過ごした。
最初の99-00は優勝したSSラツィオを横目に国内リーグ6位という苦杯を舐めたが、司令塔のトッティ、素晴らしい得点率を誇るモンテッラ(99~所属中)、ダービー男で知られるデルベッキオ(96~05所属)が組むイタリア人トライアングルは抜群の攻撃力を披露した。2000年1月には日本代表MF中田英寿が加入している。
大型補強の多さはカペッロ監督の特徴だろう。00-01開幕前、ブンデスリーガ史上最高額となる移籍金でエメルソン(00~04所属)を獲得する(結果的に彼は怪我でこのシーズンの大半を棒に振った)。すでにクラブは多くのブラジル人選手、アウダイ―ル(90~03所属)、カフー(97~03所属)、ザーゴ(98~02所属)、アスンソン(99~02所属)らを抱えていたが、あまり国籍にとらわれないのもカペッロの特徴なのかもしれない。同時にアルゼンチン代表のバティストゥータ(00~03所属)、バルボ、サムエル(00~04所属)の3選手を補強している。
こうして万全な体制で迎えた00-01シーズン、新加入のFWバティストゥータやDFサムエルがすぐに機能したこともあり、チームはカペッロ監督のお家芸である序盤戦のスタートダッシュに成功。中盤戦から終盤戦にかけては苦しむ場面もあったが、それは逆にスーパーサブ的存在だった中田英寿の活躍が光る機会となった。優勝を争うユベントスとの天王山における活躍は周知の通りである。
そして追いかけられるプレッシャーの中、チーム一丸となり最後はユベントスやSSラツィオを見事にかわしきったASローマが、00-01シーズンのイタリアリーグ王者に輝いたのだった。大型補強やスタートダッシュもさることながら、しっかり結果を残すところがカペッロ最大の持ち味だといえる。
また、上に名前が挙がった人間以外に、イタリア代表MFトンマージ(96~所属中)、ザネッティ(99~01所属)、ディ・フランチェスコ(97~01所属)、フランス代表MFカンデラ(96~05所属)といった選手たちがいぶし銀の働きをしていたことも忘れてはいけない。このシーズンのASローマが見せたパフォーマンスは決して目新しい類のものではなかったが、優勝を強く欲する選手と監督が一同に集っていたことは確かだろう。そして彼らはシーズンを通し団結して戦い、ローマの街を18年ぶりにエンジ色で染めたのだ。
翌01-02にはイタリア期待の新星カッサーノ(01-06所属)を加え、チームはさらなる躍進を目指す。このシーズンは、欧州CLでは不発ながら、国内リーグでは2位。また、シーズン前にイタリアスーパーカップで優勝し、00-01のリーグ優勝に花を添えることはできた。しかし、02-03になると8位まで順位を落とし、03-04の2位を最後にカペッロ監督がユベントスへ引き抜かれてしまう。
03-04前にはルーマニア代表キブ(03~所属中)へ数十億円を注ぎ込んだりもしていたが、この頃になるとクラブの金庫は空っぽになっていた。クラブは財政的な行き詰まりから、国内屈指の高給取りであるカペッロを引き止められなくなったのだ。経営難は深刻で、同時期にエメルソンがユベントスへ、サムエルはレアル・マドリードへ売却されている。こうして21世紀の初めに首都へ訪れた短い栄光は音もなく崩れ去っていった。
いつの時代のいかなるビッグクラブでも、偉大な指揮官と主力選手を一気に失ってしまえば、否応なく抜本的な改革を迫られる。しかも、年齢的な理由ではなく、経済的な理由からクラブがそれらを手放したとなると、建て直しには相応の努力と時間が必要だろう。不幸中の幸いといえるのは、いまやピッチ内外でクラブの象徴的存在となっているトッティが、残留姿勢を貫いていること。とはいえ、2003年にデビューした下部組織出身の新鋭デ・ロッシを筆頭に有能な若手が出現しているなどの好材料もあり、ロマニスタが現状をそこまで悲観し続ける必要はないのかもしれない。
いずれにしても、2000年代前半に築き上げた地位を2000年代後半にも維持できるかどうかは、まさに今にかかっているといえよう。近年のASローマの主役であるセンシとトッティ、二人のフランチェスコにとっては次の05-06シーズンが正念場となりそうだ。
投稿者 kitamura : 14:01 | コメント (0)
SSラツィオ
《正式名称》 Societa Sportiva Lazio
《ユニフォームカラー》 水色/白
【本拠地】 ローマ
【創立】 1900年
【スタジアム】 オリンピコ
【スタジアム収容人数】 80,558人
【国内タイトル】 国内リーグ:2回、国内カップ:4回、国内スーパーカップ:2回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:1回、欧州スーパーカップ:1回
【過去の所属選手】 シルビオ・ピオラ、キナーリア、シニョーリ、ネスタ、ロベルト・マンチーニ
【現在の会長】 クラウディオ・ロティート
【現在の監督】 デリオ・ロッシ
【現在の所属選手】 ディ・カーニオ、ペルッツィ、リベラーニ、オッド、ザウリ
【昨季の成績】 国内リーグ10位
SSラツィオはイタリアの首都ローマでASローマと人気を二分する名門クラブであり、近年の躍進により昨今は国内でも指折りの強豪として認知されるようになった。“ラツィオ”という州名を冠したチーム名の影響からか、市内よりもローマ近郊においてより多くの支持を得ている。逆に言えば、ローマの中心部ではASローマが圧倒的な人気を誇っているということ。
一般的に、ASローマが大衆のクラブであるのに対して、SSラツィオのほうは過激なサポーターを抱える右寄りのクラブだといわれている。これについては、ファン層全体が思想的に偏っているというより、ウルトラスと呼ばれる一部のサポーター集団が目立ち過ぎていることに起因するのかもしれない。彼らには人種差別やファシスト関連の話題が少なくなく、他のクラブ以上にあまり褒められない一面が多いというのも事実だろう。
ホームスタジアムはASローマとオリンピコを共用していて、両者がそこでぶつかり合うローマ・ダービーは国内有数のビッグゲームとして知られている。ラツィアーレは自分たちがライバルより27年も前に創立していることを、ロマニスタのほうはいくらか先を行くタイトルの数をそれぞれ誇るのだろう。大きな注目を集める両雄の対戦だが、近年の成績ではASローマに分があるようだ。
ユニフォームカラーに因んだ愛称“ビアンコチェレスティ(白と水色)”で知られるSSラツィオは、100年以上の歴史を誇り、現在ではいくもの輝かしいトロフィーを抱えている。国内外で獲得した主要タイトルの数は合計10個。しかし、それらのうちのほとんどは1990年代後半に得たものだ。彼らが1980年代以前に勝ち取ったタイトルは、1958年のコパ・イタリア、1974年のスクデット、この2つだけである。
SSラツィオの長いクラブ史を遡るとき、1990年代から現在に至るまでのものと、それ以前のものとは区別して理解したほうがいいのかもしれない。前者が、1992年にセルジオ・クラニョッティが会長へ就任して以降、多くのスター選手を補強しセリエAで確固たる地位を築いてきたビッグクラブであるなら、後者は、創立以降のタイトルの数(2つ)がセリエB降格回数(5回)を下回っていた凡庸なクラブであろう。そして、実際のところ、ビアンコチェレスティは後者の役回りを演じていた時間のほうがはるかに長い。
1900年1月9日、SSラツィオの前身となる「ソシエタ・ポデスティカ・ラツィオ(ラツィオ競歩協会)」はイタリア人将校ルイジ・ビジアレッリらにより設立された。州名でもある「Lazio」とはラテン語「Latium」(“広い”という意味)を語源としている。1902年にはサッカーの公式戦も記録しているが、あくまで“陸上競技の総合クラブ”としてスタートし、現在34種目のスポーツセクションを抱える欧州有数の総合スポーツクラブになったのも必然だといえよう。彼らは初めから“ローマ市内のサッカークラブ”ではなかったのだ。
チームカラーである水色と白はオリンピック発祥の地であるギリシャ国旗に由来しているとのこと。また、クラブのエンブレムには、広い領土を有した古代ローマ軍のシンボルである鷲を採用したようだ。これはラツィオ州の紋章などにも見られるものである。
現在、ファン層はローマ市外のラツィオ州全域だけでなく、隣接する各州にまで及んでいるといわれ、こういった面でも創立当初に掲げた信念が貫かれていると考えられるだろう。
長い伝統を誇るSSラツィオだが、イタリアサッカー界ではなかなか特筆すべき成績を挙げることができなかった。初タイトルは創立から50年以上経った1958年の国内カップ優勝で、リーグを制するにはさらにそれから16年間も待たなければならない。1974年のリーグ優勝後も1部に定着し続けるに至らず、SSラツィオが最後に2部から昇格したのは1988年のことである。クラブ史の中で唯一、黄金期と呼べる時代が存在するならば、それは疑いなく1990年代後半であり、それ以前のチームは程度の差こそあれ、2部落ちすることも珍しくない中堅クラブであり続けていた。
SSラツィオが初めて国内屈指のスター選手を擁したのは1930年代から1940年代にかけての約9年間である。代表で34試合に出場し30得点を記録した伝説の点取り屋シルビオ・ピオラは、クラブでも多くのゴールを量産し、イタリアサッカー史にその名を刻んだ。一見細身ながら背が高く強靭だったピオラは、1934年に加入し1943年にチームを去るまでの期間、合計143得点を挙げ、2度のリーグ得点王に輝いている。ずば抜けた実力を有する名手の存在はSSラツィオを以前より人気のあるクラブにはしたが、彼の活躍をもってしても、チームがイタリアリーグの頂上に登りつくことはなかった。
タイトルに縁のなかったビアンコチェレスティが最初にトロフィーを掲げたのは1950年代後半。1956年に国内リーグ4位、1957年に国内リーグ3位になり周囲を驚かすと、翌1958年には国内カップで念願となる初タイトルを獲得したのだった。優勝メンバーで最も有名な人物はおそらく監督をしていたフルビオ・ベルナルディーニだろう。ローマ生まれの彼はSSラツィオで育ったが、移籍したASローマのほうで頭角を現し、長く現役生活を送った。逆に、監督としてはまず後者を率いるが、このときはすぐに解任される。それからフィレンツェでの成功を経て、再び首都へ戻ってきたのが、ビアンコチェレスティにとって初タイトル獲得シーズンとなる1957-58であった。
SSラツィオに2回目の歓喜が訪れたのは1974年のこと。初タイトルから16年後の栄冠だったが、1958年から1974年までのチームは決して順風満帆な道のりを歩んできたわけではない。むしろその逆だろう。1958年に国内カップで優勝したが、そのシーズンの国内リーグでは15位まで順位を落としていて、以降も二桁順位のシーズンが続く。1960年代に入るとチーム状況はさらに悪化し、セリエBに降格すること2度。1958年のタイトルはもう遠い過去のものになりつつあった。ラツィアーレたちが明るさを取り戻したのは1970年代初頭になってからである。
苦難の1960年代を終えた直後の1971年に再び2部へ降格したチームが、昇格した1972-73シーズンにリーグ3位になったことは、予期せぬ旋風以外の何物でもなかった。しかし、マエステッリ監督の下、クラブ随一のアイドル選手である“ロング・ジョン”ことジョルジオ・キナーリアを軸に良選手を多く揃えた新しいSSラツィオは、その勢いを止める気配のないまま快進撃を続けていき、翌1973-74シーズンには悲願のリーグ優勝まで成し遂げる。ウェールズ生まれだった異色のイタリア代表FWキナーリアは、このシーズンに数多くの印象的なゴールを挙げ、リーグの得点王にも輝いた。彼がラツィアーレから愛されたことは言うまでもない。
リーグ制覇の翌シーズンに4位となった以外、良くも悪くも目立った成績を残さないまま、クラブは1970代を終える。キナーリアは1976年に北米リーグへ移籍し、そちらでも素晴らしい活躍をした。一方、彼に代わってエースになったジョルダーノは1979年にセリエAの得点王に輝いている。そのシーズンのチームは8位だった。
1970年代後半が無難、または平凡であるなら、1980年代は苦境の極みと表現してもいい。ちょうど1980年に2部降格が決まると、八百長スキャンダルなどもあり、結局10シーズンのうち6シーズンをセリエBで過ごした。この暗黒の時代を抜け出す契機となったのは1988年。ジャンマルコ・カレッリが会長に就任し、財政面を強化したことで、セリエAに定着できるクラブへと変化していく。しかし、SSラツィオがタイトルを争えるようなクラブになるまでにはもう少し待つ必要があった。
ライバルクラブであるASローマの1990年代から現在に至るまでを象徴する人物は二人いる。会長のセンシとキャプテンのトッティだ。一方、同時期のSSラツィオも同じように二人の人物で形容することができる。しかし、正確にいうと、SSラツィオのほうは1990年代から“現在に至るまで”ではなく“2000年代初頭まで”と期間を区切らなければならない。
1992年にクラブの会長へ就任したセルジオ・クラニョッティは抜群のフロントワークでチームのレベルを押し上げ、地元出身の生え抜きDFであるアレッサンドロ・ネスタは1994年にセリエAへデビューして以降、バックラインからチームを支え続けた。彼らの登場と共にビアンコチェレスティは興隆し、2002年に彼らが去ったことでクラブの黄金期も幕を閉じたといえる。
気性が激しく、いわゆる資産家タイプのセンシ会長に対して、クラニョッティ会長は典型的な成功者タイプであり態度もクールだった。事あるごとに子供っぽい言動で注目を浴びるトッティだが、ネスタのほうはいつも大人しい。両クラブを象徴する彼らはどこまでも対照的であり、そういった側面も“永遠の都”ローマのサッカーを盛り上げる一因となったのだろう。
実質的にリーグタイトルが首都にとどまるのは1999-00、2000-01の2シーズンに過ぎない。しかし、自分たちの応援するクラブが、それぞれのポジションで国内最高とされる選手を輩出し、さらには彼らをキャプテンに据えた我がチームがリーグの主役を演じているのだから、ローマの人々にとって、至福の時代だったはずである。とりわけ、ラツィアーレの記憶の中では今でも、クラブ史における最良のチームとして生き続けいているに違いない。
クラニョッティ会長下のチームは指揮した監督によって大きく3つの時期に分類することができる。1992~1997年が第1期(ゾフとゼーマン)、1997~2001年1月が第2期(エリクソン)、2001年1月~2002年12月が第3期(ゾフとザッケローニ)。
タイトル獲得は第2期に集中していて、その前の第1期はいわば優勝を争うための準備期間だといえる。1992年にクラブを買収したクラニョッティは以後、チームへ膨大な資金を注入していった。初年度に大補強を行い、それまでリーグの中位を争うクラブだったSSラツィオへ、イングランド代表ガスコイン(92~95所属)、オランダ代表ヴィンター(92~96所属)、イタリア代表のシニョーリ(92~97所属)、フゼール(92~98所属)といった面々を連れてくる。中でもシニョーリは在籍5シーズンで3度のリーグ得点王に輝くなど、クラニョッティ第1期のチームを象徴するアイドル選手となった。すでにチームはFWリードレ(90~93所属)、MFドル(91~93所属)といったドイツ代表選手を抱えていたが、彼らは翌年に放出されている。
貪欲なクラニョッティは、92-93を5位というまずまずの成績で終えたチームに、さらなる改革を施した。クロアチア代表FWボクシッチ(93~96、97~00所属)、イタリア代表のGKマルケジャーニ(93~03所属)、FWカシラギ(93~98所属)、ディ・マテオ(93~96所属)らを加えた93-94は前年より順位を一つ上げ4位になっている。
チームは上向いていたが、この93-94をもって監督をゾフからゼーマンに替えた。ゼーマンは94-95(2位)、95-96(3位)、96-97途中(結果は4位)まで指揮を執り、大きな補強をせずにチームを熟成させることで、クラブを上位へ定着させている。タイトルまでは手が届かなかったが、ネスタがスタメンに定着したのもこの頃だった。ちなみに、ゾフは後にもゼーマンやエリクソンが退任した穴埋めとしてクラブへ尽力している。
97-98シーズンを迎えるにあたって、機は熟していると判断したクラニョッティは、再び大掛かりな補強を行った。サンプドリアからスベン・ゴラン・エリクソン監督を招聘し、クラブの象徴であったFWマンチーニまで獲得する。しかし代償としてラツィアーレは最愛のエースFWシニョーリを失ったのだった。これは疑いなくクラニョッティが打って出た大博打である。
エリクソンのSSラツィオは、マンチーニ(97~00所属)が前線でタクトを振るい、中盤ではネドベド(96~01所属)やアルメイダ(97~00所属)が走り回った。最終ラインを構えたファバッリ(92~04所属)、ネグロ(93~05所属)、ネスタ(93~02所属)、パンカロ(97~03所属)は以降も長くチームを支えていくお馴染みメンバーである。
早急にクラニョッティの期待へ応えなければならなかった97-98のチームは、まずコパ・イタリア優勝、UEFAカップ決勝進出という成果をあげる。国内リーグの順位は7位に後退したが、24年ぶりのタイトル獲得に加え、欧州カップでも鮮烈な印象を残せたことは賞賛に値するだろう。
こうしてクラニョッティ第2期のチームは無事に幕を開けた。と同時に、1998年はSSラツィオがイタリアで初めて株式上場するサッカークラブになった年でもある。経済界でその手腕を高く評価されているクラニョッティは、かねてからSSラツィオの株を上場する機会を窺っていたといわれる。そして彼はインテルミラノとの対戦となったUEFAカップ決勝当日を選択したのだった。試合には負けたが、株価はすぐに上昇していった。クラブにはそれまで以上に資金が流入していくことになる。
98-99シーズン前、クラニョッティは株式上場で得た資金を元手に大型補強を敢行した。前線には1998年W杯フランス大会で活躍したイタリア代表ビエリ(98~99所属)とチリ代表サラス(98~01所属)、中盤にはポルトガル代表セルジオ・コンセイソン(98~00、03~04所属)やユーゴスラビア代表スタンコビッチ(98~04所属)を加え、最終ラインにはサンプドリア時代のエリクソンの愛弟子であるユーゴスラビア代表ミハイロビッチ(98~04所属)を獲得。そして磐石のチームは、国内スーパーカップで優勝したのを皮切りに快進撃を続け、惜しくもスクデットは逃したものの、国内リーグ2位、欧州カップウィナーズカップ優勝という結果を残す。
豪華メンバーを擁し、欧州でも有数の強豪に位置付けられるまでになったビアンコチェレスティが実は20年以上も国内でリーグ優勝していない、などとは、国外の人間なら誰も思わなかっただろう。しかし、いくら伝統のないクラブだとはいえ、国内リーグでの試合内容を観れば、念願のタイトルにもう半分手が届いているというのも明らかだった。エリクソンのSSラツィオが98-99のセリエAで稼いだ勝ち点は上から僅かに2番目だったが、彼らより優れたサッカーを披露したチームとなると一つも見当たらなかったのである。
99-00シーズンに、クラニョッティ第2期、つまりエリクソンのSSラツィオはとうとう絶頂を迎えた。最終的にビアンコチェレスティは国内リーグを制覇するのだが、これはローマ以南のクラブにとってはマラドーナのナポリ(1990年)以来10年ぶり、首都のクラブにとってはファルカンやコンティのASローマ(1983年)以来17年ぶり、そしてSSラツィオにとってはキナーリアらがいた初優勝(1974年)以来26年ぶりの快挙である。
内容ではリードしていても、やはり優勝経験の浅いクラブがリーグを制するのは難しい。このシーズンも最終節での逆転優勝という、劇的ではあるがその道のりは相当に険しいものだった。サンプドリアを優勝に導いたことのあるマンチーニの経験が大きな役割を果たしたことは言うまでもない。このカリスマがチームにもたらしたのは、おそらく優勝を欲する強い意志と、それに一丸となって向かっていく団結力だったのはなかろうか。
99-00のチームは、意外にも主力に多くの新加入選手を有していた。と同時に、前年にエースを務めていたビエリはもういない。DFラインや中盤のネドベドといった古株もいたが、司令塔のベロン(99~01所属)や、後半戦に多くの貴重なゴールをマークしたシメオネ(99~03所属)、様々なポジションを担ったセンシーニ(99~00所属)らは、いずれも新参者である。加えて、エリクソンは固定メンバーを決めないターンオーバー制を採用していたので、それこそ試合によっては昨季のチームオーダーからは予想もつかないほどの変化を見せることも珍しくなかった。
しかし、睨みを効かすカリスマFW(この頃になるとベンチを暖める時間が長くなっていた)の存在や、同国選手(主にアルゼンチン)の多さが好影響をもたらしたのだろうか、ビアンコチェレスティはシーズンを通して目まぐるしいメンバー変更を繰り返しながらも、チームとしては纏まり、目標とする一つのサッカーを演出して頂点まで辿り着いたのである。
普通なら好成績を残したチームは弄らずに少しの変化を与える程度にとどめるというのがサッカー界の定石だが、経済界出身のクラニョッティは違う考え方を持っていたようだ。彼は、自分が買収したクラブの価値を高め、クラブの株価を上げていったのと同様の手法により、獲得した選手の価値が上がると、ためらいもなくその選手を高値で放出している。ベロンやシメヨネら多くの選手を獲得できたのは、ビエリを高額で売却することができたからこそであった。
クラニョッティ、エリクソン、そして多くの選手たちによって導かれた輝かしい99-00は、欧州スーパーカップ優勝、コパ・イタリア優勝、欧州CLベスト8、セリエA優勝という素晴らしい戦績で記憶されることになる。この2000年は、SSラツィオというクラブが誕生して、ちょうど100周年にあたる記念すべき節目でもあった。これ以上望めない時間がイタリアの首都(正確にその半分)を覆いつくしていたに違いない。
新しい世紀を築くべく挑んだ2000-01は、悪くないスタートだった。アルゼンチン代表FWクレスポ(00~02所属)とその相方であるクラウディオ・ロペス(00~04所属)や、イタリア代表MFディノ・バッジョ(00~03所属)、GKペルッツィ(00~所属中)などの実力者を加え、シーズン初めにはイタリアスーパーカップのタイトルも獲っている。最終的には国内リーグで3位、欧州CLでは2次L進出にとどまったが、成績的にも、戦力的にも、内容的にも、以降の低迷を予見できるほど悪いシーズンではなかったといっていい。
しかし、クラニョッティがいくつかの落とし穴に気付いていなかったであろうことも否めない。一つ目は、このシーズンのチームが前年のチームほど纏まりを見せなかったこと。年齢の問題で勇退したマンチーニはもうベンチにいなかった。
二つ目は、怪我人の多発や唯一の右サイドMFだったコンセイソンの放出などにより、必ずしもバランスの取れたメンバーが揃わなかったこと。実際、怪我人の復帰や、右サイドMFであるポボルスキーの緊急補強などにより調整を施した後半戦のチームは、リーグ随一の強さを見せていた。
三つ目は自クラブを過大評価してしまったこと。これが一番大きい。名将エリクソンの存在はチームの基盤であった。しかし、給料でも名誉でもSSラツィオを凌ぐイングランド代表監督(外国人としては初)の誘いには勝てず、彼はシーズン半ばにしてクラブを去っている。
シーズン途中に監督を替え、国内でタイトルが獲れそうになく、欧州CLでも目立った成績を残せない、となれば、市場におけるクラブの価値は落ちていくのも必然だろう。この頃のSSラツィオは強かったが、決してユベントス、ACミラン、インテルミラノのような国を代表する名門クラブではなかったのだ。1990年代後半に猛スピードで階段を駆け上っていった首都のクラブは、それと同じくらいか、もしくはそれ以上のスピードで、低迷の一途を辿ることになる。
2001-02シーズン開幕前、財政的なバランスを取りたかったクラニョッティは、チームで最も利益が出るであろう4選手のうち、少なくとも2人を売却しなければならなかった。出されたのはネドベドとベロンで、残ったのはネスタとクレスポである。主力の放出は株価に悪影響を及ぼすが、致し方のいないことだった。
とはいえ、この時点でクラニョッティはまだ諦めていたわけではない。代役としてスペイン代表メンディエタ(01~02所属)、オランダ代表スタム(01~04所属)、さらにはイタリア代表のフィオーレ(01~04所属)、ジャンニケッダ(01~05所属)、リベラーニ(01~現所属)まで加え、ゾフ監督の下でチームが再生してくれることを期待した。
しかし前述の通り、もうチームにはマンチーニもエリクソンもいない。目玉選手であるメンディエタはスペイン時代(右サイド)とは違うポジション(中央)で起用されたが、最後まで全く馴染まなかった。このシーズンのビアンコチェレスティは、迷走する強豪クラブを絵に描いたような不甲斐無いパフォーマンスに終始し、完全崩壊へと向かっていく。財政難で行き詰ったクラブは、とうとうお金に代えられないものまで手放さずを得なくなったのだった。
2002-03シーズン前の移籍マーケットが閉まるまで後少しというときに、クラニョッティは聡明なラツィアーレへ彼らの疑念が間違っていなかったことを告げる。ネスタとクレスポは売却されたのだ。それも相手は国内のライバルクラブである。北のクラブが仕組んだらしき謀略(SSラツィオは突如として国外のクラブへ選手を売却できなくなった)により、クラニョッティには選択肢がなかった、ということを差し引いても、それは許しがたいことだった。最後の仕事を終えた元名会長は、2002年12月、多くの非難と怒号に包まれてクラブを去っている。こうしてクラニョッティとネスタのSSラツィオは幕を閉じたのだった。
周囲の悲観とは裏腹に、監督として戻ってきたマンチーニ率いる02-03のチームは予想より悪くない成績(4位)を残す。しかし、これは一時的なものに過ぎず、次の03-04には再び順位を落とし(6位)、続く04-05に早くもその数字は近年のラツィアーレが経験したことない二桁(91-92以来)へ突入していった。
所属するメンバーを眺めれば、05-06シーズンのチームにリーグ優勝を期待するのはナンセンスだと容易に想像が付く。かつてのように北のビッグクラブが羨むようなスター選手はもう存在しない。
少々非現実的な話ではあるが、アブラモビッチのようなオーナーが登場しクラブを買い取れば、1年かそこらでまた多くのスター選手を買い集められる可能性もある。しかし、ネスタのような生え抜きのリーダーは、1年どころか10年かけても、そう簡単に育て上げられないだろう。一方、現在のプリマベーラの中に、そういった才能を持った子供が隠れている可能性もなくはない。
イタリアではよくサッカーにおける現実と理想は相反しているようにいわれることがあるが、おそらくそれは間違っている。少なくともラツィアーレにとって、1990年代後半のSSラツィオでは、現実(クラニョッティと彼が連れてきた外国人選手たち)と理想(地元で生れ育ったキャプテンのネスタ)が共存していた。
現在、ファンは現実の厳しさ、理想への遠さに辟易しているかもしれない。しかし、彼らが他のクラブに乗り換えることはないだろう。喜んで地元のクラブに帰ってきた37歳の老FWが形振り構わず演じてみせる愚かで愛らしいパフォーマンスにより、空腹を満たさなければならない時代もあるのだ、ということを彼らは知っているからである。
投稿者 kitamura : 13:52 | コメント (0)
パルマ
《正式名称》 Parma Associazione Calcio
《ユニフォームカラー》 黄/青
【本拠地】 パルマ
【創立】 1913年
【スタジアム】 エンニオ・タルディーニ
【スタジアム収容人数】 28,700人
【国内タイトル】 国内カップ:3回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 UEFAカップ:1回、欧州カップウィナーズカップ:1回、欧州スーパーカップ:1回
【過去の所属選手】 ゾラ、アスプリージャ、テュラム、ファビオ・カンナバーロ、ブッフォン
【現在の会長】 グイド・アンジョリーニ
【現在の監督】 マリオ・ベレッタ
【現在の所属選手】 コッラーディ、デルベッキオ、モルフェオ、ブレシアーノ、ボネーラ
【昨季の成績】 国内リーグ16位
投稿者 kitamura : 13:46 | コメント (0)
2005年09月12日
イングランド/プレミア・リーグ
《正式名称》 The FA Premier League ( Barclays Premiership )
《通称》 プレミア・リーグ (プレミアシップ)
【国】 イングランド
【創設】 1888年 (1992年)
【統括】 イングランドサッカー協会 (FA)
【UEFAランキング】 2位
《国内1部リーグ》
【名称】 Premier League プレミア・リーグ
【参加クラブ数】 20チーム
【優勝回数最多クラブ】 リバプール:18回
【昨季の優勝クラブ】 チェルシー
【昨季の得点王】 アンリ (アーセナル) :25得点
《国内カップ》
【名称】 FAカップ
【優勝回数最多クラブ】 マンチェスター・ユナイテッド:11回
【昨季の優勝クラブ】 アーセナル
《国内リーグカップ》
【名称】 カーリング・カップ
【優勝回数最多クラブ】 リバプール:7回
【昨季の優勝クラブ】 チェルシー
《国内スーパーカップ》
【名称】 コミュニティー・シールド
【優勝回数最多クラブ】 マンチェスター・ユナイテッド:15回
【昨季の優勝クラブ】 チェルシー
投稿者 kitamura : 17:25 | コメント (0)
イングランド/FAカップ
《正式名称》 The Football Association Challenge Cup
《通称》 FAカップ
【国】 イングランド
【創設】 1871年
【統括】 イングランドサッカー協会 (FA)
【参加クラブ数】 FAに登録しているクラブで大会にエントリーをした全てのチーム。
※2005-2006シーズンのエントリー数は674チーム。
【優勝回数最多クラブ】 マンチェスター・ユナイテッド:11回
【昨季の優勝クラブ】 アーセナル
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イングランド/カーリング・カップ
《正式名称》 Carling Cup ( The Football League Cup )
《通称》 カーリング・カップ (イングランドリーグカップ)
【国】 イングランド
【創設】 1960年
【統括】 フットボールリーグ
【参加クラブ数】 プレミア・リーグ(イングランドの1部相当)所属20チーム、FLチャンピオンシップ(イングランドの2部相当)所属24チーム、FLリーグ1(イングランドの3部相当)所属24チーム、FLリーグ2(イングランドの4部相当)所属24チームの合計92チーム。
【優勝回数最多クラブ】 リバプール:7回
【昨季の優勝クラブ】 チェルシー
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イングランド/コミュニティー・シールド
《正式名称》 The Football Association Community Shield
《通称》 コミュニティー・シールド (チャリティー・シールド)
【国】 イングランド
【創設】 1908年
【統括】 イングランドサッカー協会 (FA)
【参加クラブ数】 前季のプレミアリーグ優勝クラブとFAカップ優勝クラブ。
【優勝回数最多クラブ】 マンチェスター・ユナイテッド:15回
【昨季の優勝クラブ】 チェルシー
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イングランド/04-05順位表
2004-2005シーズン イングランドリーグ順位表
【プレミアシップ】
1.チェルシー → 欧州CL本選
2.アーセナル → 欧州CL本選
3.マンチェスター・ユナイテッド → 欧州CL予備選3回戦
4.エバートン → 欧州CL予備選3回戦
5.リバプール → 欧州CL予備選1回戦 ※UEFAの特別措置により欧州CL前回王者として出場権獲得。
6.ボルトン → UEFAカップ
7.ミドルスブラ → UEFAカップ
8.マンチェスター・シティ
9.トッテナム・ホットスパー
10.アストン・ビラ
11.チャールトン
12.バーミンガム・シティ
13.フルハム
14.ニューカッスル・ユナイテッド → インタートトカップ
15.ブラックバーン・ローバーズ
16.ポーツマス
17.ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン
18.クリスタル・パレス → 2部降格
19.ノーリッチ・シティ → 2部降格
20.サウサンプトン→ 2部降格
【チャンピオンシップ】
1.サンダーランド → 1部昇格
2.ウィガン → 1部昇格
3.イプスウィッチ → プレーオフ進出
4.ダービー・カウンティ → プレーオフ進出
5.プレストン・ノース・エンド → プレーオフ進出
6.ウェストハム・ユナイテッド → プレーオフ進出 → 1部昇格
※1位、2位は自動昇格。3~6位の4チームはプレーオフを行い1チームのみが昇格。
【FAカップ】
優勝:アーセナル
準優勝:マンチェスター・ユナイテッド
【カーリング・カップ】
優勝:チェルシー
準優勝:リバプール
【コミュニティー・シールド】
優勝:チェルシー
準優勝:アーセナル
※2005年8月開催。
投稿者 kitamura : 16:44 | コメント (0)
チェルシー
《正式名称》 Chelsea Football Club
《ユニフォームカラー》 青
【本拠地】 ロンドン
【創立】 1905年
【スタジアム】 スタンフォード・ブリッジ
【スタジアム収容人数】 42,449人
【国内タイトル】 国内リーグ:2回、FAカップ:3回、国内リーグカップ:3回、国内スーパーカップ:3回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:2回、欧州スーパーカップ:1回
【過去の所属選手】 ロイ・ベントリー、ジミー・グリーブス、ボビー・タンブリング、ピーター・ボネッティ、ロン・ハリス
【現在の会長】 ロマン・アブラモビッチ
【現在の監督】 ジョゼ・モウリーニョ
【現在の所属選手】 ランパード、テリー、マケレレ、ドログバ、ツェフ
【昨季の成績】 国内リーグ1位、国内リーグカップ優勝
ロシア人の石油王アブラモビッチの買収によって、ここ数年で一気に主役の座に躍り出た“ブルーズ”ことチェルシーだが、歴史的に見るとリバプールやマンチェスター・ユナイテッドには遠く及ばず、ロンドンの強豪のうちの一つにしか過ぎない。しかし、大型補強の成果もあって昨季は名将モウリーニョ監督の下、50年ぶりにクラブ史上2度目となる国内リーグ優勝を果たすなど、その勢いは増す一方で、今後も一層の躍進が期待されている。
一般的にアーセナルは労働者階級のファン層を持ち、チェルシーは富裕階級のファンに支持されることが多いといわれているが、これは正しいようで、実際、ロンドンの政治家や財界の大物は揃ってチェルシー・ファンを名乗るし、そもそも、この問題はそれぞれのスタジアムに集まる観客を眺め比べれば簡単に納得してしまうだろう。
同じロンドンに本拠地を置くとはいえ、ハイバリーのあるノースロンドンは下町であり、一方、スタンフォード・ブリッジのあるウェストロンドンは高級住宅地なので、その場所柄がファン層に影響しているとも考えられる。
ちなみに、かつては、チェルシーファンというと一部に凶暴な極右サポーターがいることで知られていた。しかし、90年代以降は、プレミアリーグ全体がスタジアムの整備に力を入れてきたため、現在、こういったテーマが話題に上ることは少ない。
ロンドンダービーというと対アーセナルを思い浮かべるかと思うが、現在、ロンドンに本拠地を置くクラブはプレミア・リーグだけでも6つ所属していて多くのロンドン・ダービーが存在するので、チェルシーであれば同地区の対フルハム戦はウェストロンドン・ダービーとして他の対戦と分けられる。
とはいえ、やはり昨今のロンドンにおける覇権争い、という意味で、アーセナルとの対戦が一番盛り上がっていて、ベンゲル監督就任以来マンUとプレミアを引っ張ってきた“ガナーズ”とアブラモビッチ・オーナーとモウリーニョ監督が率いる新生“ブルーズ”の試合は世界的にも注目されるダービー・マッチとなっている。
ウェストロンドンのフルハム地区に1905年、フルハムに1年だけ遅れ誕生したチェルシーだが、実績面では完全にフルハムをリードし、ロンドン有数のクラブとして現在まで歩んできた。しかしイングランドを代表するクラブかと聞かれれば「ノー」と答えざるを得ず、とりわけ国内リーグの優勝回数ではリバプール、マンチェスター・ユナイテッド、アーセナルらに大きく引き離されていて、人気や知名度のわりにタイトルの少ないロンドンの名門クラブの一つ、くらいの表現が的確である。
長い歴史を誇るイングランドサッカー界で、チェルシーが初めてスポットライトを浴びたのは、おそらく1915年のFAカップだろう。このときは決勝進出を果たし、シェフィールド・ユナイテッドに破れはしたが、準優勝を遂げた。国内リーグでは1920年に3位になったが、以降は1950年代まで目立った成績を残していない。再びFAカップ決勝の舞台に姿を現すことはなく、国内リーグにおいては二桁順位の常連であり、1924年~1930年の期間に至っては2部リーグで過ごしている。
第二次大戦後の最初のシーズン、1946-47にはイングランド代表FWトミー・ロートンが26得点を挙げたが、チームは15位に終わった。ロートンはわずか2シーズンでスタンフォード・ブリッジを去っている。しかし、その後釜として1948年に加入したロイ・ベントリーは、8シーズン所属し、クラブのアイドル選手として活躍をした。国内リーグでは下位から抜け出せずにいたチェルシーだが、まず1950年と1952年にFAカップのベスト4に進出する。これらの準決勝はいずれも再試合の末、アーセナルに敗れたものだった。
1952年、長くチームを率いていたウィリアム・ビレルが退任すると、元アーセナルの名選手である当時40歳のテッド・ドレイクが監督に就任する。選手時代に多くのタイトルを獲得してきたドレイク監督は、長くリーグの下位に甘んじているクラブの建て直しに着手していった。結果はすぐに表れ、2季目の1953-54シーズンに、国内リーグで18年ぶりとなる一桁順位(8位)という好成績を残す。そして迎えた54-55シーズン、グレイク監督の下、前述のFWロイ・ベントリーやキャプテンを務めたDFジョン・ハリスらを擁するチームは、クラブ史上初のリーグ優勝を遂げたのだった。
1955年に念願の国内リーグ制覇を果たしたチェルシーだが、以降はまた二桁順位を彷徨うクラブへと逆戻りしている。1957年には地元出身でイングランド代表史上最高のストライカーの一人に数えられるジミー・グリーブスがデビューし、翌シーズンには33得点を挙げ得点王にも輝いたが、チームが再び上位に顔を出すことはなかった。グリーブスは1961年にイタリアのACミランに引き抜かれ、頼みの綱を失ったチェルシーはその1961-62シーズンに2部落ちの屈辱を味わうこととなる。
1962年、2部で抜本的なチーム改革を図るため、チェルシーは弱冠33歳の青年監督トミー・ドカティーに命運を委ねた。これが功を奏し、1シーズンでトップリーグに戻ったチェルシーは以後、1部で安定した成績を収めるようになる。1960、1961年にFAユースカップを連覇した若い選手たちを多くデビューさせ、新しいチームへと生まれ変わらせたのだった。
1963-64シーズン、1部に復帰したチームは国内リーグで5位という好位置まで登りつめ、64-65シーズンには国内リーグ3位、FAカップ準決勝進出、リーグカップ初優勝という素晴らしい成績を挙げる。若く勇敢なチェルシーは、翌65-66シーズンにも国内リーグ5位とFAカップ準決勝進出、さらには欧州フェアーズカップでスペインのバルセロナに破れはしたが、準決勝進出を果たした。
以後も1970年代前半まで国内リーグにおいて一桁台の上位を維持し続けるなど、チェルシーというクラブがイングランドリーグでしっかりとした地位や知名度を築いたのはこの時期だったといえる。主要選手としてはロン・ハリス、ピーター・ボネッティ、バリー・ブリッジス、ボビー・タンブリング、テリー・ベナブルス、さらにはチャーリー・クック、ピーター・オズグッドらがいた。
1967年にはトミー・ドカティーの下でコーチをしていたデイブ・セクストンが監督を引き継ぐが、大幅な変更はなく、チームもそれまで通り上位に顔を出していく。そして熟成したチームはとうとう1970年にFAカップで初優勝を飾るのだった(国内リーグでは3位)。この成功はこれだけで終わらず、翌シーズン、イングランドのカップ王者として初出場した欧州カップウィナーズカップでも初優勝という最大の栄誉で締めくくられる。決勝で倒した相手はあの名高きレアル・マドリードであった。
10年近く安定した実力を発揮してきたチェルシーだったが、1973年には久々に国内リーグで二桁台の12位にそのポジションを落とす。さらに翌シーズンには17位にまで下がり、デイブ・セクストンが去ると、チームはそれから長く続いていく低迷期へと突入し、この影は1990年代にまで及んだ。1905年の創立から1974年まで約70年間で、チェルシーの監督を務めた人物は僅か7名しかいない。しかし、1974年から1993年の20年間には、新たに9名が歴代監督リストに加わったのだった。
財政的に行き詰まっていたクラブは、1980年代にケン・ベイツ会長によって買収される。なかなか安定して力を発揮できない状態が続いたが、1990年代に入ってからは2部へ降格せず、しっかりと1部に残ることができるようになった。1993年に元イングランド代表MFグレン・ホドルが監督に就任すると、国内リーグでこそ中位にいたが、1994年にFAカップで準優勝し、1995には欧州カップウィナーズカップで準決勝進出を果たす。
1996年にホドルをイングランド代表監督へ送り出すと、今度は1995年からチームに加わっていたオランダの名手ルート・フリットが選手兼監督に就任。イタリアからビアリ、ゾラ、デ・マテオ、フランス代表ルブーフといった一流選手たちを連れて来ることに成功し、96-97シーズンは国内リーグ6位、FAカップ優勝という非常に満足できるものとなった。新加入選手の中でもとりわけサポーターから愛されていたゾラは、このシーズンにFWA選出の最優秀選手を受賞している。
成績的にも、メディア的にも、チェルシーの存在が際立つようになってきたのはこの頃だろう。今ほどではないが、高額な選手が頻繁に出入りするクラブというイメージを周囲は持つようになっていく。
翌1997-98シーズン、ウルグアイ代表ポジェやイングランド代表ルソーらを加えたチームは国内リーグで2位につけ、順調に進んでいるかのように見えたが、シーズン途中にフリット監督は辞任。後釜に座ったのはこちらも選手兼となるビアリであった。このシーズンのチェルシーは、最終的に、国内リーグの順位は4位にまで落としたが、欧州カップウィナーズカップ優勝と国内リーグカップ優勝という2つのタイトルを獲得することに成功している。
以後はビアリが監督業に専念し、フランス代表デサイーやスペイン代表フェレールらを獲得してチームを強化すると、チェルシーは国内リーグでも上位チームの常連となっていった。98-99は国内リーグ3位となり、ビアリ監督の最終シーズンである99-00にはFAカップ優勝も遂げている。
ビアリ以後、2000年から4シーズンに渡り監督を務めたのは同じイタリア人であるラニエリだった。イタリアやスペインで中位にいたチームを率いて上位へ引き上げ評価を受けてきた監督である。ラニエリはプレミアリーグ得点王の経験もあるオランダ人FWハッセルバインクやクロアチア代表スタニッチ、イタリア代表パヌッチらを補強し、実際、ハッセルバインクは加入後すぐに得点王となる活躍を見せるがチームは振るわず、00-01は6位に終わる。続く01-02も6位、02-03が4位、いずれも無冠であった。
クラブは選手補強などに投資しただけの結果をピッチ上で得ることができず、負債額は膨らむ一方で、いよいよ破産の危機に直面していく。こういった状況下で起こったのが、2003年7月のアブラモビッチによるチェルシー買収である。
アブラモビッチの潤沢な資金を元に、新生チェルシーはアルゼンチン代表のクレスポとベロン、ルーマニア代表のムトゥ、アイルランド代表のダフら高額選手を次々に補強すると、移籍マーケットが閉じる間際にレアル・マドリードからフランス代表マケレレを獲得することにも成功する。また、選手だけでなく、マンチェスター・ユナイテッドの最高責任者ピーター・ケニオンを引き抜いたところなどには、アブラモビッチの一筋縄ではいかない優れた手腕が窺い知れる。
一気に豪華なメンバーが集まった03-04は、過去3年間を無冠で終えていたラニエリ監督にとって最後のチャンスであった。しかし、ファンの期待は叶わず、このシーズンもチェルシーがタイトルを獲ることはない。数字だけ見れば国内リーグ2位、欧州CLではクラブ初のベスト4進出を果たしたわけだが、内容はというと、アーセナルの無敗優勝と伏兵モナコによるスタンフォード・ブリッジでの逆転劇だった。そしてラニエリのチェルシーが屈したモナコを、決勝で沈め見事にポルトを欧州王者へ導いたポルトガル人監督ジョゼ・モウリーニョが、04-05の新監督となる。
初年度で見事にリーグ優勝を遂げたモウリーニョ監督率いるチェルシー最大の特徴は、年齢的に若くハングリー精神に溢れた選手が多いということだろう。すでにスターとしての地位を確立しているハッセルバインク、クレスポ、ベロンといった選手たちには見向きもせず、まだ欧州のトップリーグで実績のないドログバ、ケズマン、ロッベンらを補強した。ポルト時代にモウリーニョの下で欧州CLを制したリカルド・カルバーリョやパウロ・フェレイラも、ポルトガルリーグでしかプレー経験がないという意味では、やはり後者に分類されるだろう。
強豪クラブとしての列記とした伝統を持たないチェルシーは、04-05シーズンのプレミアリーグで最も野心的なメンバーを揃えることにより、リーグ優勝を飾ったのである。もちろんアブラモビッチの資金力やモウリーニョの管理能力が果たした役割や、選手個人の活躍も無視できない。
いずれにしても、長い歴史を持つ世界屈指のリーグで50年間も優勝から遠ざかっていたクラブを頂点へ導くのは簡単なことではないはずだ。とりわけ近年のプレミアリーグはマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルという2強によって完全に独占されていた。
それだけに昨季のクラブ史上2回目となる国内リーグ制覇は大きな意味を持っていると考えられ、成長著しいエースのランパード、キャプテンのテリー、チェコの若き守護神ツェフ、そして数少ない既存のワールドクラスである後方の要塞マケレレ、ベンチの名将モウリーニョ、彼らはチェルシーというクラブの歴史に新たな素晴しい1ページを刻んだといえるだろう。ちなみに、04-05のリーグMVP投票では、FWA選出がランパード、PFA選出がテリーとなっている。
アブラモビッチがオーナーになる前は、主にセリエAから即戦力となる選手や監督を数多く引き抜いて“多国籍軍団”と呼ばれ、いくつかのカップ戦でタイトルも獲得していたが、それでも届かなかったのがプレミアリーグ制覇であった。そんな中、売れっ子ポルトガル人監督の下、若く伸び盛りな選手を中心に集めた現在のチェルシーが見事に念願のタイトル奪取に成功したというのは興味深い。
昨季のリーグ制覇は、歴史的に見れば50年に1度の偉業だが、現在の主力選手の平均年齢を考えれば、これからもチェルシーの力が増していくであろうと予想するほうが極めて自然だろう。迎える2005-2006シーズン、1905年に創立し1955年に初めてリーグを制し2005年に2度目のリーグ優勝を果たしたチェルシーの新しい100年が始まったのだいえる。
投稿者 kitamura : 16:19 | コメント (0)
アーセナル
《正式名称》 Arsenal Football Club
《ユニフォームカラー》 赤/白
【本拠地】 ロンドン
【創立】 1886年
【スタジアム】 ハイバリー
【スタジアム収容人数】 38,500人
【国内タイトル】 国内リーグ:12回、FAカップ:10回、国内カップ:2回、国内スーパーカップ:回
【国際タイトル】 UEFAカップ:1回、欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の所属選手】 アレックス・ジェイムス、チャーリー・ジョージ、リアム・ブレイディ、イアン・ライト、トニー・アダムス
【現在の会長】 ピーター・ヒル・ウッド
【現在の監督】 アーセン・ベンゲル
【現在の所属選手】 アンリ、ベルカンプ、ピレス、リュンベリ、レジェス
【昨季の成績】 国内リーグ2位、FA杯優勝
大砲のエンブレムと「ガナーズ(砲兵)」の愛称で知られるイングランド有数の名門クラブ。非常に長い歴史を持つ古豪であり、1886年に陸軍の兵器庫に勤める人々が結成したといわれ、その名残はエンブレムや愛称だけでなく、現在でも労働者階級の人々に広く支持されていることからも伺うことができる。
アーセナルが表舞台でその地位を確立したのは非常に早く、当時「サッカー界の皇帝」と呼ばれていた伝説的な人物ハーバート・チャップマンが1925年に監督に就任したのを皮切りにチームは力を付け、1930年代に国内リーグを5度、FAカップを2度制覇し繁栄を謳歌した。
チャップマンは1934年のシーズン中に急逝しているが、その功績はこの上なく大きなものであったといわれ、今でもアーセナルだけでなくイングランド・サッカー、さらには欧州サッカーの発展に尽力した偉大な人物として語り継がれている。
これは単にアーセナルというチームを当時のイングランドNo.1クラブに押し上げたというだけでなく、画期的なフォーメーションの確立、クラブのマネージメント、スタジアムの運営から、背番号の導入、ユニフォームの色分け、ラジオ中継といった部分まで、サッカー創成期に、サッカーをアマチュアのスポーツからプロのエンターテインメントへと昇華させるにあたって大きな役割を担った改革者としても評価されているようだ。
ちなみに、チャップマンについてその先進性を示すエピソードは事欠かず、例えばそれまでの木造スタジアムではなく、“アールデコ”様式を採用した現在のハイバリーの着工を提案したのも彼であったということである。
黄金期の真っ只中、1934年にサッカー界の皇帝を失ったアーセナルは、彼の死後も国内リーグとFAカップでそれぞれ1度ずつタイトル奪取に成功したが、時代の波には逆らえず、1939年に第二次世界大戦が勃発しリーグ戦が中断すると共に、黄金期の幕を閉じることとなった。
輝かしい1930年代を送ったガナーズだが、戦後にリーグが再開した1940年代後半から1980年代後半までの約40年間は低迷期であったと一般的には考えられている。
この期間に、マンチェスター・ユナイテッドやノッティンガム・フォレスト、そしてリバプールといったチームが世界的に名を挙げた一方で、アーセナルは国内リーグで3度、FAカップで3度、UEFAカップの前身である欧州フェアーズ・カップでも1度の優勝を遂げているが、第一次世界大戦中断以降、つまり1919年から一度も下部リーグに降格したことないイングランドで唯一のクラブにとっては少ない数字であったのだろう。
1980年代に低迷は極まっていたが、現役時代もアーセナルに所属していたジョージ・グラハムが監督に就任すると事態は変化し、アダムス、ディクソン、ボールド、ウィンターバーン、シーマンらの強力な守備を武器に1990年代前半までに数多くのタイトルを獲得した。
しかし、この頃のアーセナルはイングランド代表のポール・マーソン、アラン・スミス、イアン・ライトといった優秀な攻撃陣を擁するも、「Boring,boring,Arsenal(つまらない退屈なアーセナル)」というフレーズが生まれるほどチームとしてはロングボールを多用し、攻撃的な魅力に欠けるサッカーをしていたことから、ファンの間でも評価は賛否の分かれるところであるようだ。
そういう事情もあってか、本当の意味で第二次世界大戦後の長い低迷の呪縛を解いたのは1996年に就任し現在も指揮を執っているフランス人監督アーセン・ベンゲルであるといわれ、その評価は非常に高いものとなっている。
ベンゲル監督は、そのままイングランド代表の守備陣であるシーマン、アダムス、キーオン、ディクソン、ウィンターバーンは残しつつ、前線にはオランダの天才ベルカンプやウイングのオフェルマルス、自分と同じフランス出身の選手であるアンリ、アネルカ、プティ、ビエラ、ピレスといったようにテクニックに秀でた外国人選手を連れてきて、攻撃的で美しいサッカーを披露し、ちょうど全盛期にあったサー・アレックス・ファーガソン率いるマンチェスター・ユナイテッドに対抗する唯一の存在としてタイトルも獲得した。
特に昨々シーズンの国内リーグ無敗優勝は、プレミアシップになってからはもちろん初だが、イングランドの長い歴史を紐解いても115年ぶりの快挙であり、ライバルであるファーガソン監督のマンチェスター・ユナイテッドやアブラモビッチ・オーナー1年目のチェルシーらを全く寄せ付けない戦いぶりは数字同様に見事なものであったといえよう。
03-04シーズンのアーセナルのサッカーは、あのヨハン・クライフをして「もしアーセナルがそのスタイルで欧州CLを優勝すれば、欧州はこのようなチャンピオンを誇りに思うだろう」と言わしめたほどで、チームとして最も油が乗っている時期だったのかもしれない。
昨季、ポルトガル人モウリーニョ監督のチェルシーが国内リーグを独走し、スペイン人ベニテス監督のリバプールが欧州CLの頂点に辿り着いたことで、今季はプレミア・リーグにおける“フランス人ベンゲル監督のアーセナル”が国籍的にも実力的にも際立ったものではなくなったと見るむきもあるが、キャプテンのビエラが移籍し、新スタジアム完成も翌年に控えているということを考えれば、リーグの勢力図以前にアーセナルというクラブ自体が過渡期に入っているといえるのではなかろうか。
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マンチェスター・ユナイテッド
《正式名称》 Manchester United Football Club
《ユニフォームカラー》 赤/白
【本拠地】 マンチェスター
【創立】 1878年
【スタジアム】 オールド・トラフォード
【スタジアム収容人数】 68,190人
【国内タイトル】 国内リーグ:15回、FAカップ:11回、国内カップ:1回、国内スーパーカップ:12回
【国際タイトル】 欧州CL:2回、欧州カップウィナーズカップ:1回、欧州スーパーカップ:1回、インターコンチネンタルカップ:1回
【過去の所属選手】 ボビー・チャールトン、ジョージ・ベスト、ブライアン・ロブソン、エリック・カントナ、デビッド・ベッカム
【現在の会長】 マルコム・グレイザー
【現在の監督】 サー・アレックス・ファーガソン
【現在の所属選手】 ファン・ニステルローイ、ルーニー、ギグス、スコールズ、リオ・ファーディナンド
【昨季の成績】 国内リーグ3位
“レッド・デビルズ(赤い悪魔)”の愛称で世界的に知られるイングランド屈指のビッグ・クラブ。もともとイングランドを代表する有名クラブであったが、1990年代にピッチ上で素晴しい成功を収めると共に、計画性と先見性を備えたマーケティング戦略で規模を拡大しアジアや北米といったサッカー未開拓地域にファンを獲得したことで、現在は世界で一、二を争う人気を誇るようになった。
そのためグッズ収入なども多く、また、ベッカムやギグスらの全盛期には“シアター・オブ・ドリームズ(夢の劇場)”と呼ばれた大型ホーム・スタジアム“オールド・トラフォード”の集客数も常に安定していて、世界で最も裕福なクラブともいわれている。
実際、アメリカの総合ビジネス誌「Forbes(フォーブス)」が発表する世界のサッカー・クラブの資産価値ランキング、収益ランキングでも毎年、レアル・マドリッドらを抑え首位をキープしているようだ。
株式市場に上場しているため、今年、アメリカ人の実業家マルコム・グレイザーに買収されたが、長い歴史を持つクラブだけに地元サポーターの反対運動も大きなものとなり、現在も続いている。
国内最大のライバルは“レッズ”ことリバプールだが、近所のライバルは水色のユニフォームを着用するマンチェスター・シティであり、通称“ユナイテッド”と呼ばれるマンチェスター・ユナイテッドが全国区の人気を誇るのに対して、地元ファンがほとんどであるマンチェスター・シティは“マンチェ”と略されることが多い。
蛇足だが、英国の有名な音楽バンドであるマンチェスター出身のオアシスのメンバーは、マンチェスター・シティのサポーターを公言し、クラブに出資までしているという話で、一方、オアシスのライバル的存在であるロンドン出身のブラーのメンバーはユナイテッド・ファンであるというのは興味深い。イングランドでは庶民にとってもロック・スターにとっても、サッカーが生活の一部であるようだ。
さて、ユナイテッドのクラブ史を振り返ると、1878年に地域の鉄道労働者が「ニュートン・ヒース・ランカシャー・アンド・ヨークシャー・レイルウェー・カンパニー・クリケット・アンド・フットボール・クラブ」として設立したのが始まりで、1902年に運営母体が変わったことにより現在の名前「マンチェスター・ユナイテッド」となった。第二次世界大戦前の数十年間で幾つかのトロフィーを獲得してはいるが、強豪として数えられるようになったのは1945年にスコットランド人サー・マット・バスビー監督が就任してからだろう。
伝説的な名将に率いられたチームは、1948年のFAカップ優勝を皮切りに1951-1952、1955-1956、1956-1957シーズンに国内リーグを制覇して、イングランドにおいては確固たる地位を築いた。そしてどこの国の強豪クラブもそうであるように、国内を制したユナイテッドは、1955年に設立されていた欧州チャンピオンズカップへの挑戦に向かうことになる。
しかし、1958年、チャンピオンズカップのレッドスター戦から帰国途中にミュンヘンで飛行機事故に遭い、レギュラー8人の命を奪われてしまったバスビーの第一次ユナイテッドは再スタートを切らざるをえなくなってしまう。(「ミュンヘンの悲劇」と呼ばれている。皮肉にもこの事故によってユナイテッドはイングランド中にファンを有するクラブとなった。)
1958年以前のバスビーのユナイテッドを第一次としたのは、ダンカン・エドワーズら多くの選手を失いチームは壊滅したにもかかわらず、奇跡的に生き残ったバスビー監督や若きボビー・チャールトンらを軸として、数年後に見事な復活を遂げたからである。デニス・ローやジョージ・ベストといったスーパースターを加えつつ、バスビーの第二次ユナイテッドは再び力を付けていき、バスビー・ベイブス(バスビーの子供たち)の愛称で親しまれたチームは1963年にFAカップ、1964-1965、1966-1967シーズンに国内リーグで優勝を果たした。
そして迎えた1968年のチャンピオンズカップ、ミュンヘンの悲劇からちょうど10年後にあたるシーズンに決勝進出を果たし、強豪ベンフィカ相手に延長へもつれ込む熱戦(90分1-1、延長3-0)を繰り広げた末、イングランドのクラブでは初となる念願の欧州チャンピオンズカップのタイトルを母国に持ち帰ることとなったのだ。
バスビー初タイトル(1948年のFAカップ)から20年、ミュンヘンの悲劇(1958年の事故)から10年越しの栄冠、このドラマチックな成功により、ユナイテッドはイングランドだけでなく世界的な人気クラブとして認知されるようになったと言われている。
この後、偉大な監督や選手が去ったことでクラブは少し足踏みし、1975年には2部落ちを経験するなど、低迷に耐え、もう一人の偉大な監督の出現を20年近くも待つことになるのだった。
現在も監督を務めているサー・アレックス・ファーガソンがその職に就いたのは1986年11月、来季の初めで20年間が経とうとしている。
今でこそタイトルとお金とスターに満ちたビッグクラブというイメージのあるユナイテッドだが、サー・アレックスが就任した頃のクラブは、バスビー以後、リバプールやノッティンガム・フォレスト、アストン・ビラが次々に欧州チャンピオンになる中、低迷を続けていた古豪で、1975年には2部落ちの屈辱を味わい、1980年代のイングランド代表とマンチェスター・ユナイテッドを支えたブライアン・ロブソンの登場でやっと盛り返してきつつも国内リーグ優勝には手が届かないという状況だった。
しかし、“ファギー”ことファーガソンが監督に就任するとクラブは徐々に力を付けていき、1990年にFAカップ、1991年に欧州カップウィナーズカップ、1992年に国内カップをそれぞれ制し、いよいよ1992-1993シーズン、リーズからエリック・カントナを迎え入れることとなるのである。
偉大なる名将に加えて偉大なるカリスマを得たユナイテッドはそのシーズンに、バスビー・ベイブス以来となる26年ぶりの国内リーグ優勝を飾り、黄金期の幕明けをアピールした。
一番上にあるマンチェスター・ユナイテッド全獲得タイトルのうち、ファーガソン時代のものを挙げると国内はリーグ:8回、FAカップ:5回、国内カップ:1回、スーパーカップ:5回とほぼ半分にあたり、国際タイトルに至っては1967-1968シーズンの欧州CC以外は全てファギー時代のものなのだ。サー・アレックスの功績を示すに十分過ぎる数字である。
この成功について語るとき、サー・アレックス、カントナと共に避けては通れないのが、下部組織の充実とそこから育った選手たちの活躍であろう。「ジョージ・ベスト2世」ライアン・ギグスのデビューを皮切りに、お馴染みのベッカム、スコールズ、バット、ネビル兄弟といった若者たちの成長と共に、1990年代のユナイテッドは栄光の階段を上っていったといってよい。
彼らが、孤高の天才カントナの背中から多くを学び、偉大なキャプテンであるロイ・キーン、欧州最高のツートップと恐れられたアンディ・コールとドワイト・ヨーク、オランダの巨漢ヤープ・スタム、世界最高の守護神といわれたシュマイケルら優れた外国人選手と共に活躍しながら、日に日に力を伸ばしていく姿は、世界中でサッカーファンを魅了したに違いない。
現在もファン・ニステルローイ、ルーニー、クリスチアーノ・ロナウド、リオ・ファーディナンドといったスター選手を擁するイングランドの強豪マンチェスター・ユナイテッドではあるが、黄金期の真っ只中を歩んだギグス、ベッカム、スコールズらの世代が衰えや移籍によってチームから離れつつあり、それと同時にタイトルからも遠ざかっているという事実は、長く見守ってきたファンにとって寂しいことであろう。
投稿者 kitamura : 15:54 | コメント (0)
エバートン
《正式名称》 Everton Football Club
《ユニフォームカラー》 青
【本拠地】 リバプール
【創立】 1878年
【スタジアム】 グディソン・パーク
【スタジアム収容人数】 40,200人
【国内タイトル】 国内リーグ:9回、FAカップ:5回、国内スーパーカップ:9回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の所属選手】 ビル・ディーン、ネビル・サウスオール、ピーター・リード、グラベセン、ルーニー
【現在の会長】 サー・フィリップ・カーター
【現在の監督】 デビッド・モイーズ
【現在の所属選手】 ダンカン・ファーガソン、カーヒル、カーズリー、アルテタ、ナイジェル・マーティン
【昨季の成績】 国内リーグ4位
リバプール市に本拠地を置き、赤いユニフォームでお馴染みのリバプールFCより古く設立されていた青いユニフォームの名門クラブでありイングランドでも指折りの古豪的存在。
1878年に設立されると、元々はあの有名なリバプールFCの本拠地アンフィールドをホームスタジアムとしていたが、1892年に契約のもつれからエバートンが現在のグディソン・パークに移転し、それに伴いアンフィールドのオーナーが新しく創立したのがリバプールFCである。
同じ港町を本拠とし強烈なライバル関係にあるエバートンとリバプールのスタジアムは500mほどしか離れておらず、両者が対戦する「マージーサイド・ダービー」はイングランド屈指の熱さで知られている。
エバートンファンはエバトニアン、リバプールファンはコップスと呼ばれ、かつてはファン層がプロテスタント系とカトリック系に分かれていたといわれるが、現在はコップスのほうがより労働者階級の色が濃い、程度の違いであると考えられる。
ちなみに、リバプールFCの“レッズ”は有名だが、エバートンの愛称は“トフィーズ(Toffees)”。トフィーとはリバプール周辺で作られているキャラメルのようなお菓子で、以前、グディソン・パークにはトフィー・レディーなるものが存在し、観客にサービスで配っていたという名産品。
リバプールができる14年前に創立していたエバートンだが、1888年に発足したイングランドのフットボール・リーグの初代メンバーに名を連ねているだけあって、1890-1891シーズンの第3回大会で初優勝も飾っている。1906年にFAカップでも初優勝を遂げ、1914-1915シーズンには2度目のリーグ制覇に成功するも、第一次世界大戦の勃発で翌年からリーグは中断し黄金期を築くことはできなかった。
しかし、1925年から“ディキシー”ことビル・ディーンが加入したこともあり、1927-1928シーズンに3度目となるリーグ優勝を果たすと、1931-1932シーズンにもリーグ制覇、1933年にはFAカップを制覇するなどディキシーのエバートンはタイトルに満ちた時代を送る。
チームの成績に関してはアーセナルの黄金期と前後しているためそれほど大きく語られることはないが、特筆すべきは1927-1928シーズンに60ゴールを挙げたディキシーで、これは1シーズンの最多得点記録として現在も破られていない。
ちなみに、ビル・“ディキシー”・ディーンが去ってから勢いが落ちたと思われたエバートンだが、1938-1939シーズンにも国内リーグで優勝している。ところが、第二次世界大戦の勃発でこのときもリーグが中断したことで連覇の夢を絶たれている。
戦後は暫くタイトルから遠ざかるが1963年に国内リーグを制覇すると、1969-1970シーズンには当時のイングランド代表の中盤を支えたアラン・ボール、コリン・ハーベイ、ハワード・ケンドールらを中心にリーグ優勝を果たし、再び低迷を挟んで、1980代に今度はケンドールが監督に就任し好成績を収め始める。
ネビル・サウスオール、ピーター・リード、グレイム・シャープ、トレバー・スティーブン、ケヴィン・シーディ、アンディ・グレイらを擁するチームは1984年にFAカップを制すると、1985年には国内リーグと欧州カップウィナーズカップの2冠を達成し、いよいよ次なる目標は欧州チャンピオンズカップへ向けられるはずだった。
しかし、同じく全盛期にあり一足先に欧州を席巻していた隣のライバルチームのリバプールが関与した「ヘイゼルの悲劇」により翌年以降5年間イングランドの全クラブが欧州カップから締め出される措置がとられたため、エバートンも欧州チャンピオンズカップ出場資格を手放すことになるのである。
このイングランド空白の5年間を終えてからは、残念ながらエバートンが国内で頂点に立つことはなく、近年は中位を維持するのがやっとで欧州チャンピオンズリーグに顔を出すチャンスも巡ってこなかったが、2004-2005シーズンにデビッド・モイーズ監督の下、よく組織されたチームがリーグで順調に勝ち点を積み重ね、とうとう2005-2006シーズンの欧州チャンピオンズリーグ予備選出場権を獲得した。
予備選ではクジ運の悪さもあり、スペインのビジャレアルと対戦し惜しくも敗れることになったが、ここ数シーズンのうちに放出したルーニー、グラベセン、ジェファーズといった有名選手の売却金を元にした効果的な補強に成功しているので、国内リーグやUEFAカップでの躍進が期待されている。
投稿者 kitamura : 15:48 | コメント (0)
リバプール
《正式名称》 Liverpool Football Club
《ユニフォームカラー》 赤
【本拠地】 リバプール
【創立】 1892年
【スタジアム】 アンフィールド・ロード
【スタジアム収容人数】 45,362人
【国内タイトル】 国内リーグ:18回、FAカップ:6回、国内カップ:7回、国内スーパーカップ:12回
【国際タイトル】 欧州CL:5回、UEFAカップ:3回、欧州スーパーカップ:3回
【過去の所属選手】 エムリン・ヒューズ、ケビン・キーガン、ダルグリッシュ、イアン・ラッシュ、ジョン・バーンズ
【現在の会長】 デビッド・ムーアズ
【現在の監督】 ラファエル・ベニテス
【現在の所属選手】 ジェラード、キャラガー、シャビ・アロンソ、ルイス・ガルシア、モリエンテス
【昨季の成績】 国内リーグ5位、欧州CL優勝
リバプールFCはその名の通りビートルズを生んだ都市リバプールに本拠を置き、レッズの愛称で世界的に有名なビッグクラブで、イングランド国内においては1、2を争う名門クラブだといえる。
同じリバプール市のライバル・チームはエバートンだが、実績的には国内屈指の強豪マンチェスター・ユナイテッドが最大のライバル的存在であり、現に両者の対抗意識は非常に強く、これは数十年の間、お互いの選手を直接移籍させていないことからも分かる。
とはいえ、元々カトリック系中心だったといわれるコップス(リバプール・サポーターの呼称)とプロテスタント系だったといわれるエバトニアン(エバートン・サポーターの呼称)のライバル関係も強烈で、マージーサイド・ダービーはイングランド有数の激しさで知られている。
元来、ラグビーやテニスに比べサッカーはイングランドで庶民のスポーツ、生活の一部として発展してきたが、リバプール市の両サポーターの中では、コップスのほうがより労働者階級の色が濃いといわれている。
少し話は逸れるが、赤いユニフォームのリバプールFCと青いユニフォームのエバートンが、ビートルズの著名な2枚組ベスト・アルバム赤盤・青盤の由来になっているとかいないとか。ちなみにポール・マッカートニーは家族が揃ってエバートンのファンだったのでグディソン・パークに何度か足を運んだというし、一方、ジョン・レノンは好きな人物としてリバプールのセンタフォワードだったアルバート・スチュービンスを挙げていたのだという話。
こういったエピソードの数々は、いかにサッカーというスポーツがイングランドという国の奥深くに馴染んでいるかを端的に表しているともいえるだろう。
長い歴史を持つイングランド・サッカーにおいて、最多のリーグ優勝回数を誇るリバプールFCだが、意外にも彼らが国内指折りのビッグクラブとして認識されるようになったのは1960年代から。
1950年代のほとんどを2部で過ごし低迷に喘いでいたリバプールだが、1959年に“マージー・メシア”(マージー川の救世主)と呼ばれる伝説的な名将ビル・シャンクリーが監督に就任すると、3シーズンで1部に昇格し、1964年には国内リーグ制覇まで辿り着く。
翌1965年にクラブ史上初となるFAカップ優勝を果たすと勢いは止まらず、1966年には再び国内リーグを制すると同時に欧州カップウィナーズカップでも準優勝を遂げ、1973年にはUEFAカップ決勝でネッツァー、ボンホフ、ハインケス、フォクツらを擁するタレント軍団ボルシアMGを破り欧州の舞台にもその名を知れ渡らせた。
シャンクリーは1974年に退官するまでの期間、リバプールに多くの栄冠(国内リーグ3つ、FAカップ2つ、UEFAカップ1つ)をもたらしたが、タイトルの数以上にその育成手腕は評価されるべきだろう。ロジャー・ハント、ジョン・トシャック、レイ・クレメンス、ケビン・キーガンといった無名選手をトップレベルに育て上げることでチームを強化したという方法は、シャンクリー以後、1950年代からシャンクリーのアシスタントを務めていた右腕ボブ・ペイズリーやジョー・フェイガンが監督になってからも引き継がれ、クラブに数え切れないほどの優勝カップを運んだ。
“マイティ・マウス”の愛称で知られるイングランド人ケビン・キーガンの活躍で1976-1977シーズンに欧州チャンピオンズカップ初優勝を飾ったリバプールだが、翌シーズンには、移籍したキーガンの後釜として加入したスコットランド人ダルグリッシュが機能し再び欧州王者に輝き、ウェールズ人の英雄イアン・ラッシュが徐々に力を見せ始めた1980年代前半にもこのタイトルを2回獲得したことで、優勝カップの数は欧州でレアル・マドリッドに次ぐ2番目、イングランドでは最多となった。
この時代のリバプールでは、キーガンやダルグリッシュの他にも、1970年代のリバプールとイングランド代表を主将として支えた“クレイジー・ホース”ことエムリン・ヒューズや、テリー・マクダーモット、グレアム・スーネスといったスター選手がプレーしている。
1970~80年代の20年間で、国内リーグ10回、FAカップ3回、国内カップ4回、欧州CC4回、UEFAカップ2回を制し、まさに世界のサッカー史に残る黄金期を過ごしたリバプールだが、連覇を目指し決勝まで駒を進めていた1984-1985シーズンの欧州CCで起こった惨事により、その栄光は衰退していくこととなる。
1970年代後半から1980年代前半は、欧州最高峰の舞台であるチャンピオンズカップで4回優勝を飾ったリバプールFCの黄金期であると同時にイングランド・サッカーの絶頂期でもあった。1977年から1984年まで欧州CCの8大会で、イングランドのクラブ以外が優勝したのは、わずか1度しかなく、特に1977~1982年の期間は6大会連続でイングランド勢が制していたのだった。
あらゆる意味で勢いに乗るイングランドを欧州中のサッカーファンが恐れた。しかし、彼らが欧州中から恐れられた理由は、ピッチ上のパフォーマンスだけではなくて、サポーターたちの凶暴さからでもあった、“フーリガン”である。
1985年、欧州CC決勝戦直前に、荒れたリバプール・サポーターが相手側のユベントス・サポーター席に雪崩れ込み、39人の死者を出すという「ヘイゼルの悲劇」が起こったことで、イングランドのクラブは5年間、欧州カップ出場権を剥奪されることとなった。
黄金期の真っ只中にあったリバプールは、この年以降も国内ではいくつかタイトルを獲得するが、1989年にまたもサポーター関係の暴動で96人のファンを亡くしてしまい、1990年代に入るとイアン・ラッシュやジョン・バーンズなどの人気選手を擁すもタイトルから遠ざかり始め1980年代の栄光は過去のものとなる。
近年は、ファウラー、マクマナマン、オーウェン、キャラガー、ジェラードら代表レベルの優れたタレントを多く輩出し、1997~2004年にはフランス人監督ジェラール・ウリエの下、いくつかのカップ戦タイトルを獲得したが、欧州のビッグクラブにとって2大タイトルである国内リーグと欧州CLの優勝には届かずにいた。
しかし、2004-2005シーズン、バレンシアからスペイン人の名将ラファエル・ベニテスを引き抜くことに成功すると、下部組織出身のエースであったオーウェンを放出するなどの荒治療を施し、クラブにとって21年ぶりとなる欧州CL優勝を達成している。
ラテン圏から多くの外国人選手を加えたベニテスのリバプールはまだまだチームとして発展途上であるとも見られているが、新キャプテンとなったジェラードらを筆頭に若返りが進んだことで、彼らの今後のさらなる成長が期待されている。
投稿者 kitamura : 15:38 | コメント (0)
トッテナム・ホットスパー
《正式名称》 Tottenham Hotspur Association Football Club
《ユニフォームカラー》 白/紺
【本拠地】 ロンドン
【創立】 1882年
【スタジアム】 ホワイト・ハート・レーン
【スタジアム収容人数】 36,240人
【国内タイトル】 国内リーグ:2回、FAカップ:8回、国内カップ:3回、国内スーパーカップ:4回
【国際タイトル】 UEFAカップ:2回、欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の所属選手】 ブランチフラワー、ジミー・グリーブス、アルディレス、グレン・ホドル、リネカー
【現在の会長】 ダニエル・リビー
【現在の監督】 マルティン・ヨル
【現在の所属選手】 ロビー・キーン、デフォー、ダービッツ、キング、ポール・ロビンソン
【昨季の成績】 国内リーグ9位
“スパーズ”の愛称で知られる国内有数の人気クラブであり、ロンドンを代表する名門クラブの一つ。日本のオールドファンの間では、初めて来日した海外のクラブとして記憶されている。
英国の首都ロンドンには数多くの有名クラブが存在し、現在もトッテナム以外にチェルシー、アーセナル、フルハム、チャールトン、ウェスト・ハムと、5チームがイングランドのトップ・リーグに所属している。
よってこれらのチーム同士の対戦は全て“ロンドン・ダービー”であるわけだが、数が多過ぎるため、地区ごとに分けて呼ばれることが多く、ノースロンドン・ダービー(アーセナル対トッテナム)、ウェストロンドン・ダービー(チェルシー対フルハム)、イーストロンドン・ダービー(ウェスト・ハム対チャールトン)、サウスロンドン・ダービー(ミルウォール対クリスタル・パレス)といったようになっている。
数あるロンドン・ダービーの中でも、とりわけ盛り上がるのが“スパーズ”ことトッテナムと“ガナーズ”ことアーセナルの“ノースロンドン・ダービー”で、両者の激しいライバル関係はロンドン随一であるといわれる。ちなみに、現在アーセナルの最終ラインを担っているイングランド代表DFキャンベルはその前にトッテナムに所属していて、彼が移籍したときに起こった騒動はまだ記憶に新しい。
隣のライバルクラブであるアーセナルと比較するとトッテナムは実績面で大きく劣るが、それでも人気面では長年しっかりと対抗してきた。というのも、今では嘘のように聞こえるかもしれないが、10年ほど前までは退屈なアーセナルに対してスパーズは華麗であるというのが一般的なイメージであったからだ。
かつてアーセナルはシーマン、アダムスら多くのイングランド代表守備陣を擁し手堅いサッカーを展開していたの対し、トッテナムはテクニシャンを多く揃えて魅力的なサッカーを披露していた。
しかし、アーセナルにベンゲル監督が就任してから事態は一変し、華麗なサッカーを繰り広げ常にタイトル争いに絡んでいるライバルを横目に、近年、トッテナムは低迷を続け、かつての両者のイメージはもう過去のものになってしまったといえるかもしれない。
また、90年代以降、ウェストロンドンの名門クラブ、チェルシーが好成績を残し続けていることで、ロンドン・ダービー=アーセナル対チェルシーという図式になってしまった感が否めないことは、トッテナムのサポーターにとって悲しいことであろう。
スパーズの歴史を辿ると、ホットスパー・クリケット・クラブを母体にホットスパーFCが設立されたのが1882年で、1884年にはすでに現在の名称になっていたといわれる。かつてこの地を支配していた貴族のあだ名が“ホットスパー(荒くれ者)”と呼ばれていたことがチーム名の由来であるとか。
非常に長い歴史と確かな伝統を持つトッテナム・ホットスパーではあるが、リーグ制覇の経験は僅か2回しかなく、前回の優勝も今から45年前になってしまっている。
トッテナム史において真の黄金期と呼べるのは恐らくその1960年代であろう。今でもトッテナムの伝説として多くのファンに愛されている偉大なる北アイルランド人MFブランチフラワーを中心に据えたチームは、1960-1961シーズンに国内リーグとFAカップを制し、20世紀初の「ダブルクラウン(2冠)」に輝いた。
クラブでも代表でも代えの利かないキャプテンだったブランチフラワーは、フィジカルに頼らない技術と頭脳を兼備した“イングランドには珍しいタイプ”のゲームメイカーであったというのは非常に興味深い。
スパーズは翌年、イングランド代表の歴史上で一、二を争う点取り屋として名高いジミー・グリーブスを加え、FAカップを、さらに次の年にはクラブ初となる欧州カップ(欧州カップ・ウィナーズ・カップ)をそれぞれ獲得した。
1964年に38歳のブランチフラワーが引退すると勢いを落とすが、もう一人の偉大な北アイルランド人であり、栄えある英国史上でもベストGKの一人に数えられるパット・ジェニングスが加入し、1967年にFAカップ優勝を遂げると、1970年にはウェストハムからイングランド代表の名MFマーティン・ピータースを獲得し、1971-1972シーズンにはUEFAカップも制覇している。
1970年代から1980年代には国内外でいくつかのカップ戦タイトルを獲得し、1960年代前半ほどでないにしても輝かしい時期を過ごしているのは確かだろう。とりわけ、アルゼンチン人MFアルディレスやスパーズのアイドルとして10年以上君臨したグレン・ホドルらを擁した1980年代前半のチームは2回のFAカップ優勝と1回のUEFAカップ優勝を遂げると共に、そのインテリジェンスに溢れたサッカーで多くのファンを魅了した。
クレバーでテクニカルなプレースタイルが持ち味であったアルディレスに関してよく語られるのは“イングランドの地で成功した本当に数少ない南米選手”であるということと、ファンに非常に愛された選手であったということだが、フォークランド紛争(イングランドとアルゼンチンの間で争われた)の勃発で彼が一時フランスへ移籍してしまったとき、トッテナムのホーム・スタジアムに「フォークランドはくれてやるからオジーを」なる横断幕が張られたという話はそれを端的に表す有名なエピソードである。
1980年代後半になるとニューキャッスルでコンビを組んでいた“イングランド人らしくない二人の選手”ドルブルの王様クリス・ワドルと愛すべき問題児ポール・ガスコインが次々に加入し、魅力的なサッカーを展開した。後に移籍してきたガスコインは、ワドルが去ってから加わったリネカーとも絶妙なコンビを組み、1991年にはFAカップ優勝を遂げている。
1990年代には、「ブロンドの隼」ことドイツのクリンスマン(現在の独代表監督)や、華麗なドリブラーでピッチを彩り私生活においても英国人を唸らす紳士として名を馳せたフランスのジノラといった外国人スター選手が所属し、それぞれリーグ最優秀選手に輝くほどの活躍をしている。イングランド代表クラスでは、テディ・シェリンガムやダレン・アンダートン、レス・ファーディナンドなどの面々がいた。
21世紀に入ると目立った成績を上げるどころか、毎シーズン、優勝に絡まない中堅チーム的なポジションにおさまり続けていて、ファンの期待を裏切っている。今季はまだ始まったばかりだが、ジェナス、ダービッツ、李栄杓らを補強し、今のところリーグで良い位置につけていて、久々に上位進出の可能性が見えてきているといえよう。
投稿者 kitamura : 15:21 | コメント (0)
アストン・ビラ
《正式名称》 Aston Villa Football Club
《ユニフォームカラー》 ワインレッド/水色
【本拠地】 バーミンガム
【創立】 1874年
【スタジアム】 ビラ・パーク
【スタジアム収容人数】 42,719人
【国内タイトル】 国内リーグ:7回、FAカップ:7回、国内カップ:5回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 欧州CC:1回、欧州スーパーカップ:1回
【過去の所属選手】 アーチー・ハンター、ピーター・ウィズ、ポール・マグラー、デビッド・プラット、ドワイト・ヨーク
【現在の会長】 ダグ・エリス
【現在の監督】 デビッド・オレアリー
【現在の所属選手】 バロシュ、アンヘル、ケビン・フィリップス、メルベリ、ソーレンセン
【昨季の成績】 国内リーグ10位
イングランド・リーグで7回の優勝経験を誇り、創設期からのメンバーであるだけでなく、当時のアストン・ビラ役員ウィリアム・マクレガーがリーグ発起に大きく貢献したといわれる古豪中の古豪。
ロンドンに次ぐイングランド第二の都市バーミンガムを本拠地とする国内有数の名門クラブだが、タイトルのほとんどが約1世紀前のものであるためか、総合的にリバプールやマンチェスター、ロンドンの強豪クラブほどの知名度や評価は得られていない。
ミッドランドことイングランド中部に位置するバーミンガムは、交通の要所として知られ、産業革命により18世紀からは工業都市として発展した。現在は英国随一のアジア人街があることで有名で、アジア人の人口が全体の15%にも上るといわれている。
また、英国では唯一ともいえるスラム街のある同都市には他にもいくつかの有名クラブが存在するが、アストン・ビラはその中でも実績で群を抜いていて、最大のライバルクラブであるバーミンガム・シティや、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンに比べると、労働者階級よりも中産階級のファンが多いといわれている。ちなみに、バーミンガム・ダービーといえば一般的にアストン・ビラとバーミンガム・シティの対戦を指す。
愛称はチーム名の“ビラ”、もしくは“クラレット軍団”とも。“クラレット”とはボルドー産の赤ワインのことで、クラブ設立時から変わっていないワインレッドのユニフォームからそう呼ばれているようだ。イングランドには他にもウェスト・ハム、クリスタルパレスらが同じ色のユニフォームを着用しているが、その多くはリーグ創設期のアストン・ビラの強さにあやかったものだといわれている。
1874年に創立したアストン・ビラの黄金時代は、リーグが開設してわずかである19世紀後半から20世紀初頭であり、まだ世界の有名クラブの多くが存在さえしていない19世紀中、すでに5度のリーグ優勝、3度のFAカップ優勝をそれぞれ経験している。19世紀に最も多くイングランド・リーグを制したクラブとなった。あまり多くのデータは残っていないが、アーチー・ハンターというスター選手を生み出している。
20世紀に入ってからも、1901年にリーグ優勝、1905、1913、1920年にFAカップ優勝といったようにタイトルを重ねていくが、その後は徐々に失速していき、1930年代頃から本格的に低迷していくこととなる。リーグ創設時には最高の名門であったビラも、この頃になると2、3部でプレーするという屈辱も味わなければならなくなった。
長い低迷からの転換期は、クラブ創立100周年を迎えた1974年だろう。ロン・サンダース監督を迎え、強豪の一角に返り咲いたアストン・ビラは、1975、1977年に国内カップ優勝を遂げる。そればかりか、1981年には念願となる国内リーグ優勝を果たし、翌年の1982年には欧州CC優勝も達成したのであった。
1970年代後半~1980年代前半といえば、まさにイングランド・サッカー=リバプールが欧州を完全に制圧していた時代であり、代表クラスの有名選手を多く擁していたリバプールの連覇に風穴を開けた伏兵ビラの躍進は、当時の人々の胸に驚きをもって受け止められたに違いない。というのも、結果的にリバプールは、この前年まで国内2連覇中で、この後、今度は国内を3連覇しているからだ。
久々となる古豪の優勝に貢献したピーター・ウィズ、アラン・エバンスらは今でも、多くのビラ・ファンの間で知られてはいるが、イングランドのサッカー史に名を残すほどの活躍をしたとはいえず、また無名選手も少なくなかったためか、チーム成績は翌年から下降線を辿り、1987年の2部降格をして、ビラの短い栄光は幕を閉じるのであった。
近年は一部に定着し、“ゴッド(神)”の愛称で親しまれたアイルランド人DFポール・マグラーや、のちにマンチェスター・ユナイテッドでも活躍するトリニダード・トバゴの英雄ドワイト・ヨークらを擁したチームは、1994、1996年に国内カップを制している。1990年代に所属したイングランド代表クラスの選手では、1990年ワールドカップなどで活躍したデビッド・プラットや現在ミドルスブラの最終ラインを担っているサウスゲートらが有名。
21世紀に入って目立った成績は残せていないが、元リーズのアイルランド人監督デビッド・オリアリーの元、チェルシーが独走態勢に入りつつある今季は、ひっそりと建て直しのチャンスを窺っている。
投稿者 kitamura : 15:10 | コメント (0)
ニューカッスル・ユナイテッド
《正式名称》 Newcastle United Football Club
《ユニフォームカラー》 黒/白
【本拠地】 ニューカッスル
【創立】 1881年
【スタジアム】 セント・ジェームズ・パーク
【スタジアム収容人数】 52,387人
【国内タイトル】 国内リーグ:4回、FAカップ:6回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 UEFAカップ:1回
【過去の所属選手】 ジャッキー・ミルバーン、クリス・ワドル、ポール・ガスコイン、アンディ・コール、ピーター・ベアズリー
【現在の会長】 フレディ・シェパード
【現在の監督】 グレアム・スーネス
【現在の所属選手】 シアラー、オーウェン、ルケ、ダイアー、ギブン
【昨季の成績】 国内リーグ14位
ニューカッスル・ユナイテッド(以下、ユナイテッド)はイングランドの北東部、スコットランド近くのタイン&ウェア県は、炭鉱と造船の街ニューカッスル・アポン・タインに本拠を置く古豪。一般的に“アポン・タイン”の部分は省略されニューカッスルと呼ばれているが、同じ地名が英語圏の各地域に複数存在するため、正式にはニューカッスル・アポン・タイン(以下、ニューカッスル)。
炭鉱や造船のほかには、“The One and Only”というキャッチフレーズで知られる地ビールが有名。イングランドでも指折りのキャパシティーを誇るセント・ジェームズ・パークは丘の上にあり、地元ファンからは“神殿”と呼ばれ広く愛されている。
クラブの愛称は、“Magpies(マグパイズ)”、もしくは“Dirty Skunks(スカンク)”だが、マグパイズとはカササギという黒白の鳥、スカンクもご存知の通り白黒の斑で、いずれもユニフォームの色に由来している。
ライバル・クラブは近所のサンダーランドAFCで、ノースイースト・ダービー、またはタイン&ウェア・ダービーと呼ばれる両者の対戦は、イングランド屈指の熱いダービーとして知られている。タイン川沿いのニューカッスルに対して、サンダーランドはウェア川の河口に位置し、炭鉱と造船の街であること、クラブが古豪であること、ファン層が労働者階級であることなど、似ている部分が非常に多い。しかし、近年の実績や知名度ではユナイテッドが上回っているようだ。
ユナイテッドはニューカッスル全人口の7割以上を占めるといわれる労働者階級のファン層を中心にに支持されているイングランド有数の人気クラブで、“Toon Army(ToonとはTown)”と呼ばれるサポーターは熱狂的で知られる。スタジアムにおけるユニフォーム着用率はリーグで1、2を争い、毎試合、セント・ジェームズ・パークの観客席の9割以上がシーズンチケットホルダーで埋まるのだそうだ。
もちろん、シーズンチケットともなると高額で、値段は500万ポンド(約10万円)を下らない。数年前に、ユナイテッド・サポーターである10代の不良少年がそのシーズンチケット欲しさに様々な悪さを働くという内容のイギリス映画が日本でも公開されていたが、サッカーというスポーツがいかに浸透しているか、クラブがいかに強く支持されているか、を示すエピソードだろう。(映画の題名は「シーズンチケット」)
また、英ロック界の大御所デビッド・ボウイが、ニューカッスルでの公演中に、ユナイテッドの黒白ユニフォームを振り回して観客を喜ばせていたという話もある。ちなみに、同じツアーのロンドン公演でそのパフォーマンスをしたときには、ユニフォームではなくユニオンジャック(英国旗)を手にしていたというのは面白い。こういったエピソードからは、ニューカッスルという街におけるユナイテッドの存在感を垣間見ることができよう。
さて、ニューカッスル・ユナイテッドの歴史だが、その始まりは他のイングランドの名門クラブ同様、19世紀にまで遡る。まず1881年に「Stanley Cricket Club Of South Byker」のフットボール部門として創立し、合併や名称変更を重ねた末、1892年には現在の「Newcastle United FC」となった。早くから実績を残すことに成功し、20世紀の初頭には1905、07、09年に国内リーグ優勝、1910年にFA杯優勝を遂げている。
1932年にも再びFA杯を制するがチーム力は安定せず、1934年には降格の憂き目に遭い、以後はしばらく1部でプレーできない状態が続いた。しかし、1943年、ユナイテッド史にその名を残す英雄“Wor Jakie”ことジャッキー・ミルバーンが登場すると、スタン・シーモア監督に率いられたチームが1948年に1部昇格を果たす。ミルバーンは地元の炭鉱出身で、1943~1957年の間にリーグ戦・カップ戦合計395試合199得点を記録したユナイテッド最大のヒーローだといえる。彼の活躍と同時に、クラブも多くのタイトルを獲得(1951、52、55年FA杯優勝)し黄金期と呼べる時期を過ごした。
1960代に入ると振るわず1961年に2部降格、しかし持ち直すと1969年にはUEFA杯の前身であるフェアーズ杯優勝と、浮き沈みを繰り返すが、結局、イングランド国内では1955年のFA杯、欧州では1969年のフェアーズ杯を最後に、現在まで主要タイトルから遠ざかっている。
1980年代の初めにはイングランドのみならず欧州を代表する名選手であるケビン・キーガン、ドリブルの名手クリス・ワドル、また中頃には愛すべき問題児ポール・ガスコインらが所属したことで知られた。
チームが長い低迷から脱する契機となったのは1992年だろう。まず、ケビン・キーガンが今度は監督に就任する。そして2部にいたチームはシーズン途中に無名の若きアンディ・コールを獲得すると、彼の活躍もあり1993年に昇格を決める。
そして迎えた1993-1994シーズンには1部でもアンディ・コールが大ブレイクし34得点を挙げ得点王に輝くと、イングランド代表ピーター・ベアズリーらも加わったチームは3位の好成績を上げ、一気に古豪の復活をアピールすることに成功したのだった。
続く94-95は6位だったが、このシーズンオフにエースのアンディ・コールをライバルであるマンチェスター・ユナイテッドにイングランド最高の移籍金で引き抜かれる。この資金で95-96シーズンにはイングランド代表レズ・ファーディナンド(現代表リオ・ファーディナンドの従兄)やフランス代表ダビド・ジノーラらを獲得し2位、翌96-97シーズンには現在もニューカッスル・ユナイテッドの象徴であり続けているアラン・シアラーやコロンビアの奇才アスプリージャらを得て再び2位に入る。しかし、この栄冠に届かなかった2回が共に、アンディ・コール擁するマンチェスター・ユナイテッドによって阻まれたという事実は悔やまれることだろう。ちなみに、2部からチームを支えてきたキーガン監督は、96-97シーズン途中をもって辞任している。
キーガン以後は、ケニー・ダルグリッシュ、ルート・フリットという元有名選手が監督を務めるが、再びチームが良い方向に進み出したといえるのは1999年にボビー・ロブソンが就任してからであろう。攻撃的なフットボールでファンを楽しませ、最初の2シーズンこそ中位を彷徨うが、2001-2002シーズンには4位、02-03には3位、03-04には5位と着実に強豪としての地位を固めた。この期間にはベテランの域に入っているシアラー以外にも、アイルランド代表GKギブン、ペルー代表のソラーノらが活躍し、また、ウェールズ代表のベラミー、イングランド代表のダイアー、ジェナスといった良質な若手が続々と登場している。
しかし、04-05シーズン開幕直後のスタートダッシュに失敗するとボビー・ロブソンが解任され、チームは崩壊へと向かうこととなる。引き継いだグレアム・スーネス監督が現在もクラブを指揮しているが、数年前のレベルまでチーム力を上げられるかどうかは、今後1~2シーズンにかかっているといえるだろう。
05-06シーズン前には、イングランド代表のオーウェン、パーカー、スペイン代表ルケ、トルコ代表エムレ、出戻りとなった人気選手ソラーノら、積極的な補強を行い、上位進出を目指している。ちなみに、チェルシーのロシア人アブラモビッチの影に隠れてはいるが、ニューカッスル・ユナイテッドの会長フレディ・シェパードも相当の富豪であるとの話である。
投稿者 kitamura : 15:01 | コメント (0)
ウェストハム・ユナイテッド
《正式名称》 West Ham United Football Club
《ユニフォームカラー》 エンジ/水色/白
【本拠地】 ロンドン
【創立】 1895年
【スタジアム】 アップトン・パーク
【スタジアム収容人数】 35,595人
【国内タイトル】 FAカップ:3回、国内スーパーカップ:1回
【国際タイトル】 欧州カップウィナーズカップ:1回
【過去の所属選手】 ビク・ワトソン、ボビー・ムーア、ジョフ・ハースト、ビリー・ボンズ、トレバー・ブルッキング
【現在の会長】 テレンス・ブラウン
【現在の監督】 アラン・パーデュー
【現在の所属選手】 シェリンガム、ベナユン、ポール・コンチェスキー、レプカ、アントン・ファーデナンド
【昨季の成績】 国内2部リーグ2位
数あるロンドンのクラブの中で最も著名な中堅クラブ。創設以来、いまだ国内リーグ戦のタイトルはないが、カップ戦での優勝や育成組織の充実はよく知られている。ロンドン東部に本拠を置くことから、チャールトンとの対戦はイーストロンドン・ダービーと呼ばれる。
愛称である“Hammers”からも分る通り、1895年にテムズ鉄工所のチーム「テムズ・アイアン・ワークス」として設立されたのがこのクラブの始まり。1900年に「ウェストハム・ユナイテッド」に改称し、1904年には現在のアップトン・パーク(正式名称はボレイン・グラウンド)へと移転している。
クラブ史において最初に特筆すべき成績を収めたのが1922-23シーズンで、2部リーグを2位で終えクラブ史上初の1部昇格を決めると共に、FA杯でファイナリストにもなった。(新築のウェンブリーで初めて開催された記念すべき決勝戦であった)
当時のスター選手としては、1920~34年まで長く在籍し、リーグ・カップ戦含め505試合326得点という実績を残した伝説的なFWビク・ワトソンがいる。この通算得点記録は現在でもクラブ史上最多として破られていない。
1923年のFA杯決勝進出以来、目立った成果を挙げられず、タイトルに手が届かないどころか1部でのプレーもままならない時期が続いたウェストハム・ユナイテッドだが、1960年代にはクラブ史で最高のときを過ごすこととなる。
まず、1932年に2部へ降格してから20年以上1部に上がれずにいたクラブが、2部で優勝を飾り1部昇格を決めた1958年が一つ目の契機であろう。これはちょうど、数年後に生え抜きのスター選手としてキャプテンマークを巻くボビー・ムーアが17歳でデビューする年でもあった。
次の契機は1961年、クラブ史上最高の名将ロン・グリーンウッド監督の就任である。なかなかスタメンに定着できずにいた若きDFボビー・ムーアを中核に据え、そのムーアと共に代表でも主軸を担ったFWジジョフ・ハースト、MFマーティン・ピータースを擁するチームは、以後、多くのタイトルを獲得していく。グリーンウッド監督の性質なのか、ウェストハムはとりわけカップ戦に強いクラブだったようである。
1963-64シーズンのFA杯で念願の栄冠に辿りつくと、翌1964-65には国内スーパー杯から始まり欧州カップウィナーズ杯も制覇する。
1965-66シーズンは国内カップ戦(イングランドのリーグ杯)における決勝進出にとどまるが、何といっても、このウェストハム黄金期を支えた生え抜きトリオ(ムーア、ハースト、ピータース)のハイライトといえば、1966年W杯イングランド大会であろう。キャプテンのムーア、決勝戦でハットトリックを成し遂げたハースト、同じく決勝戦で2点目を決めたピータース、いずれも地元でのW杯優勝に大きく貢献したのだった。
偉大なるキャプテンとして知られるムーアは、この母国優勝によって1964年FA杯決勝、1965年欧州カップウィナーズ杯決勝(偶然にも会場がウェンブリーであった)、1966年W杯決勝と、3年連続で聖地ウェンブリーにおいて、それもキャプテンとして優勝カップを掲げた選手となったのである。
これ以降はしばらくタイトルから遠ざかり、1970年にピータース、1972年にハースト、1973年にはムーアと長年クラブを支えた選手たちが抜けていくが、一方でクラブ歴代最多出場記録を作ったDFビリー・ボンズや同時期に活躍したMFトレバー・ブルッキングといった選手たちが台頭していき、チームを見守り続けているグリーンウッドの下、1975年には再びFA杯優勝を果たした。続いて1976年には欧州カップウィナーズ杯で決勝に進出するが、このときはアンデルレヒトの前に屈している。
1977年に代表監督就任のためグリーンウッドがクラブを去り、1978年にはリーグ戦で2部落ちの憂き目に遭ったが、1980年には3度目のFA杯優勝、1981年には国内カップ準優勝と、相変わらずカップ戦では好成績を収めた。しかし、そういった状況も長くは続かず、1980年を最後に現在に至るまで久しくタイトルから遠ざかっている。1部リーグの下位と2部リーグの上位を行き来する中小クラブの枠組みに納まってしまっている感は否めないだろう。
1990年代には、かつて選手としても活躍したハーリー・レドナップ監督の下、プレミア・リーグに定着するようになったが、彼らの順位以上に注目を集めたのがユース・アカデミー(下部組織)の質の高さである。とりわけトップリーグに所属するクラブともなれば選手の入れ替わりが目まぐるしい現代の欧州サッカー界において、その地道な手腕はひと際輝いている。
1966年W杯優勝トリオから上に名前の挙がったボンズ、ブルッキング、ハーリー・レドナップに至るまで、ウェストハムのアプレンティス(練習生)からスタートしサッカー選手としてのキャリアを築いていった人間は非常に多いが、その流れは今も脈々と続いているのだった。
騒がれる理由は、実際にウェストハム・ユナイテッド出身選手の名前を挙げるだけで事足りる。チェルシーのフランク・ランパード、ジョー・コール、マンチェスター・ユナイテッドのリオ・ファーディナンド、トッテナムのキャリック……。1990年代後半にウェストハムが生んだ選手たちは、現在ちょうどイングランドA代表を担う年齢になり、そのうち数人は2006年W杯のスタメン候補に名を連ねるまでになっている。
ウェストハムのチーム事情もあり、彼らはそれぞれ高額で放出され、もう今は異なるクラブでプレーしているが、皆、同じロッカールームから巣立っていった。そういう意味では家族のような繋がりを持ったクラブだといえよう。
ちなみに、フランク・ランパードは同じくウェストハムの下部組織出身選手であるフランク・ランパード・Snrを父に持ち、元監督のハーリー・レドナップも叔父に当たる人物。また、リオ・ファーディナンドの弟であるアントン・ファーディナンドが現在、ウェストハムに所属しているといったように、実際に血縁関係が目立つのもこのクラブの特徴だろうか。
いずれにしても、近年2部落ちもあり好成績を挙げられていないトップチームの躍進が期待される。名門クラブの復活を期待するファンも少なくないはずだ。昨季は超ベテランの域に達しているシェリンガム、今季はスペインからイスラエル代表ベナユンなどを補強し、プレミアでの上位進出を目指しているが、さし当たっては長いスパンにおけるトップリーグ定着を果たしたいところである。