《正式名称》 Real Madrid Club de Fútbol
《ユニフォームカラー》 白
【本拠地】 マドリード
【創立】 1902年
【スタジアム】 サンティアゴ・ベルナベウ
【スタジアム収容人数】 80,000人
【国内タイトル】 国内リーグ:29回、国内カップ:17回、国内スーパーカップ:7回
【国際タイトル】 欧州CL:9回、UEFAカップ:2回、欧州スーパーカップ:1回、インターコンチネンタルカップ:3回
【過去の所属選手】 アルフレッド・ディ・ステファノ、プスカシュ、ヘント、ウーゴ・サンチェス、ブトラゲーニョ
【現在の会長】 フロレンティーノ・ペレス
【現在の監督】 バンデルレイ・ルシェンブルゴ
【現在の所属選手】 ラウール、ジダン、ベッカム、ロナウド、ロベルト・カルロス
【昨季の成績】 国内リーグ2位
スペインのみにとどまらない、世界を代表する強豪クラブといえよう。クラブレベルにおいて世界で最も難しい大会であると考えられている欧州CL(CC時代を含む)で最多の優勝回数を誇り、FIFAによって「20世紀最高のクラブ」にも選ばれている。
スペインの首都マドリードに本拠を置くので地元のライバルはアトレティコ・マドリードということになるが、最大のライバルはカタルーニャの雄FCバルセロナであり、両者の対決「エル・クラシコ」(伝統の一戦)は現在、世界中のサッカーファンから注目されるビッグカードの一つとなっている。
創立は1902年だが、現在のスタジアムの名前にもなっている英雄サンティアゴ・ベルナベウが会長職に就任するまでのレアル・マドリードは、国内の強豪クラブの一つでしかなかった。1928年から始まった国内リーグでも、初優勝をバルセロナにさらわれると、その後の実績もアスレティック・ビルバオなどには及ばない状態が続く。
当時のスター選手では、1912年にマドリードでデビューし後に会長にもなったサンティアゴ・ベルナベウ、バルセロナやエスパニョールを経て1929年に首都へと移籍した伝説的なGKリカルド・サモラらがいた。また、1932年にはバルセロナのスター選手サミティエールと契約し当時から世間を賑わしていたようだ。
レアル・マドリードの“レアル”とは“王の、王室の”という意味で、その称号が与えられたのは1920年だが、よくスペインで言われているような国や政府の庇護を受けてきたクラブというイメージが生まれたのは、独裁者フランコの存在があったからだと思われる。フランコは当初それほどサッカーに興味を持っていなかったが、レアル・マドリードが欧州を制してから、サッカーが持つ国際的な影響力を最大限に利用しようとしたといわれている。欧州CC制覇による反響の大きさを知って以降、彼のレアル・マドリードに対する支持は、亡くなる1975年まで続いていたようだ。
1920年にレアルとなり、1939年にはフランコが登場していたが、レアル・マドリードは1935年から1953年まで長く国内リーグ優勝から遠ざかっている。よって、国内レベルのクラブを世界的なクラブへと押し上げたのは、やはりベルナベウであり、ディステファノであるといったほうが正しいだろう。
1943年にサンティアゴ・ベルナベウ会長が就任すると、レアル・マドリードは、スペインを代表する世界的な強豪クラブになることを目標に掲げ、スター選手獲得へ力を入れ始める。その最もたる例が、バルセロナとの争奪戦の末、1953年に加入したアルゼンチン出身の名手アルフレッド・ディ・ステファノだ。
これは水面下における政治的な力であったり陰謀であったり、様々な憶測やエピソードと共に語り継がれている。二転三転の末、世界最高の選手を得たレアル・マドリードは、1953-1954シーズンに21年ぶりとなる国内リーグ優勝を果たし、以後もスター選手を加えながら、国内外で多くのタイトルを重ねていった。
1950年代後半にそのディステファノ、ハンガリーのプスカシュ、フランスのコパ、スペインのヘント、アルゼンチンのリアル、ウルグアイのサンタマリアらを擁し、欧州CCを5連覇した伝説のチームは余りにも有名。1960年代にはチームを支えてきた外国人選手が軒並みクラブを離れたが、今度はヘント、アマンシオ、ピッリら優れたスペイン人スタープレイヤーを中心に据え“イェーイェース”と呼ばれたチームが欧州CCを制し、国内でも多くのタイトルを獲得した。
1970年代になると国際タイトルからは遠ざかるが、サンティリャーナ、ファニート、ピッリ、カマーチョ、デルボスケなどのスペイン代表選手にドイツのネッツァー、ブライトナー、シュティーリケらを加え、クライフやニースケンスといったオランダ人スター選手を獲得していたバルセロナと激しい覇権争いを繰り広げている。近年にレアル・マドリードの監督を務めたカマーチョ、デルボスケ、ガルシア・レモンらは、この頃から選手として活躍しクラブへ貢献していた。
1980年代は、メキシコの英雄ウーゴ・サンチェス、ドイツの天才シュスター、アルゼンチンの賢人バルダーノらと共に、ブトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケス、サンチスらのクラブ下部組織から育った選手たち“キンタ・デル・ブイートレ”が活躍した時代として知られる。カンテラ上がりの選手が多く、また、彼らがチームの骨格を形成していたこともあり、とりわけ地元ファンを大いに喜ばせた。
1980年代の後半は国内リーグ5連覇、UEFAカップ2連覇などの成功を収めたが、1990年代前半になると国内では完全にクライフ監督率いるバルセロナの後塵を拝し、また、チームが欧州王者から長く遠ざかっていたこともあり低迷が叫ばれた。
しかし1990年に現役を引退していたホルヘ・バルダーノが1994‐1995シーズンに監督に就任すると、17歳4ヶ月の若き天才ラウールをデビューさせ、久々のリーグ優勝を遂げる。これ以降、チーム状態は徐々に上向きになり、1990年代後半にはラウール、イエロ、レドンド、ロベルト・カルロス、ミヤトビッチ、スーケル、モリエンテスら多くのスター選手を有したチームが再び欧州の頂点に返り咲き(32年ぶりとなる欧州王者)、新たな黄金期へと突入した。
数年後に大会歴代最多得点記録保持者となるラウールを中心とした圧倒的な攻撃力と勝負強さを武器に、とりわけ欧州CLにおいて、5年間で3度の優勝(97-98優勝、98-99ベスト8、99-00優勝、00-01ベスト4、01-02優勝)を果たし、歴史的に見ても極めて優れた成績を残したチームであったといえる。
直後にW杯フランス大会を控えた1998年CL決勝戦のマドリードは至宝ラウールを筆頭とするスペイン代表選手の面々に加え、W杯得点王となるスーケル、準優勝ブラジルのロベルト・カルロス、ベスト4オランダのセードルフらが揃い、一方のユベントスは天才デル・ピエーロを筆頭とするイタリア代表の面々に加え、地元でW杯初優勝を飾るフランスのジダン、デシャン、ベスト4オランダのダービッツといったスター選手が並んでいた。
CL史上初の同国対決となった2000年の歴史的な決勝戦では、準決勝で同じくスペインのバルセロナを破り大会に旋風を巻き起こしていたクーペル監督率いるバレンシア相手に、モリエンテス、マクマナマン、ラウールのゴールで見事な勝利を収めている。
会場がスコットランドのハンプデンパーク(1960年の欧州CC決勝でディステファノ、プスカシュらが名試合をした場所)だったということもあり、試合前から盛り上がりを見せた2002年の決勝では、直後のW杯コリア・ジャパン大会で決勝まで進んだドイツのバラック、シュナイダー、ラメロウらが率いる強力な伏兵レバークーゼンと一進一退の攻防を繰り広げたが、ラウールの先制ゴール、ジダンのスーパーボレー、カシージャスの好セーブの末、見事に優勝を飾った。
彼らの残した素晴らしい結果同様、決勝戦がいずれも華やかな好カードとなったことで、多くの人々の記憶に今でも深く刻まれているといえるだろう。
2000年に現在のフロレンティーノ・ペレスが会長となり、バルダーノがゼネラル・マネージャーに就任してからはバルセロナのフィーゴ、2001年にユベントスのジダン、さらには2002年W杯の直後にロナウドと、欧州のビッグクラブからのスター引き抜きに成功している。2003年にはマンチェスター・ユナイテッドのベッカム、2004年にはリバプールのオーウェンも加入した。
財界から高い評価を受けるフロレンティーノ・ペレス会長が就任してから商業的にメリットのある選手を重宝する傾向にあり、実際、経営面では成長を続けている。スター選手補強、アジアツアー、グッズ販売などは一連のプロジェクトの下に行われているといえるだろう。
しかし、スター選手を獲得する一方で、2003年にはバルダーノがフロントから離れ、世界最高の守備的MFの一人であるフランス代表マケレレ、長年クラブを支えてきたキャプテンのイエロ、様々なポストでクラブに携わってきた監督デルボスケらを軒並み放出するなど、チームの編成面では疑問の声も多かった。
実際、ここ数年のレアル・マドリードは、安定感のない戦いぶりで2年連続の無冠という屈辱を味わっている。注目度は高く、ことあるごとにメディアを賑わしているが、ピッチ上では結果も内容も伴っているとは言い難い。
新シーズンはポルトガル代表のフィーゴ、イングランド代表のオーウェンといったバロン・ドール受賞者の二人を一挙に放出すると、ウルグアイ代表のパブロ・ガルシア、ディオゴ、ブラジル代表に名を連ねるロビーニョ、バプティスタ、将来性溢れる若きスペイン代表DFセルヒオ・ラモスらを次々に補強し、巻き返しが期待されている。