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バルセロナ

《正式名称》 Fútbol Club Barcelona
《ユニフォームカラー》 青/エンジ

【本拠地】 バルセロナ
【創立】 1899年
【スタジアム】 カンプ・ノウ
【スタジアム収容人数】 98,772人

【国内タイトル】 国内リーグ:17回、国内カップ:24回、国内スーパーカップ:6回
【国際タイトル】 欧州CL:1回、UEFAカップ:3回、欧州カップウィナーズカップ:4回、欧州スーパーカップ:2回
【過去の所属選手】 サミティエール、クバラ、ルイス・スアレス、ヨハン・クライフ、ロマーリオ

【現在の会長】 ジョアン・ラポルタ
【現在の監督】 フランク・ライカールト
【現在の所属選手】 ロナウジーニョ、エトー、シャビ、デコ、プジョル

【昨季の成績】 国内リーグ1位

 レアル・マドリードと並ぶスペインの名門クラブ、というより、“スペイン”ではなく“カタルーニャ地方”を象徴するクラブといったほうが正しいかもしれない。
 カタルーニャ州はスペインの北東、地中海側に位置する自治州で、州都はバルセロナ、人口は全州の中で2番目、また、カスティージャ語(一般的にスペイン語)と共にカタルーニャ語を公用語としている。独裁者フランコの時代に政府の庇護を受けてきたレアル・マドリードとは対照的に、抑圧されるカタルーニャのシンボルとして地元で絶大な支持を得てきた。
 単独クラブが保有するスタジアムとして欧州最大である「カンプ・ノウ」や、「ブラウ・グラーナ」と呼ばれる青とエンジの縦縞のユニフォームの胸にスポンサーを付けないことなどは有名だろう。現在は世界的な人気を誇ることもあり、約13万人の「ソシオ」と呼ばれるクラブ会員を持つ欧州屈指のビッグクラブであるといえる。(前のローマ法王は会員ナンバー10,800番目のソシオであった。)

 カタルーニャのシンボルとはいえ、その財力は世界有数で、古くから多くのスター選手を抱えてきた。1920年代から1930年代にかけては、当時のスペインを代表する伝説的な選手であるサミティエールやリカルド・サモラ。1950~1960年代には、バルセロナ史上最高の選手と評価する声もあるハンガリー人ラディスラオ・クバラ(1951~1961年)、スペイン史上最高の選手の一人だといわれるルイス・スアレス(1953~1961年)らが活躍した。
 クバラを加えたバルセロナは1951-52シーズン、国内リーグと国内カップの2冠を達成すると、ラテン・カップ(欧州CC発足前にスペイン、ポルトガル、フランス、イタリアの王者が集い対戦していたカップ戦)でもユベントスらを破り優勝。クバラ時代の10年間、ちょうど首都の白い巨人の黄金期と重なっていたにもかかわらず、バルセロナは国内外で多くのタイトル(国内リーグ4回、国内カップ4回、ラテンカップ1回、欧州フェアーズカップ2回)を獲得することに成功している。彼らの他には、スペイン代表GKとしても活躍したアントニオ・ラマジェッツ、今でもバルセロナのクラブ記録となっているクラブ通算194得点を挙げたセサール、1950年代後半に加入した“マジック・マジャール”の主力メンバーである点取り屋コチシュや左ウィングのチボールらがいた。

 クバラ、スアレス以降、長くリーグ優勝から遠ざかったバルセロナだが、1973年に“空飛ぶオランダ人”ヨハン・クライフがアヤックスより加入すると、14年ぶりに国内リーグ制覇を果たす。当時のスペインはフランコ独裁政権下であったたため、マドリード寄りのジャッジが吹かれていたといわれ、この優勝はカタルーニャの人々にとってただの一回以上の意味を持っているようだ。
 まず、アヤックスでクライフをデビューさせたイギリス人バッキンガムが1970年にバルセロナ監督へ就任する。彼は個人的な事情から1年でクラブを去るが、次にバルセロナを訪れたのは他でもない、1970-71シーズンにアヤックスを欧州王者へ導いたばかりのリヌス・ミケルスであった。ミケルスのバルセロナは初めのシーズンに3位、翌72-73には2位となる。
 そして迎えた73-74シーズン、名将ミケルスと名手クライフがアヤックス以来となるコンビを組み、現役時代にはチームメイトとして、後に助監督としてもクライフを支えた右ウィングのカルレス・レシャックらを擁するチームは念願の国内リーグ優勝を飾ったのだった。
 とりわけアウェイのサンティアゴ・ベルナベウでレアル・マドリードを粉砕した試合(スコアは0-5)は今でも語り草となっている。また、独裁政権下のスペインでレアル・マドリードへの敵意を公言して憚らなかったクライフという人物は、ピッチの中でも外でも、バルセロナファンにとって衝撃でありセンセーションであったのだろう。

 一気にカタルーニャのアイドルになったクライフだが、1978年には一時引退をはさんでから米国リーグへと去っている。その5年間にチームへもたらしたタイトルの数は1974年のリーグ優勝と1978年の国内カップ優勝の2つのみ。選手時代のクライフが所属したバルセロナは、ミケルスの更迭、ドイツの名監督へネス・バイスバイラーの招聘、バイスバイラーとクライフの確執、ミケルスの再任など、何かと問題も絶えなかったようだ。1977-78シーズンをもって、クライフとミケルスのバルセロナは終焉を迎える。クライフ加入の翌年に加わったオランダ代表MFヨハン・ニースケンスも、クライフの後を追うようにして米国リーグへと移籍した。

 1980年代には、デンマークのシモンセン、ドイツのシュスター、アルゼンチンのマラドーナ、イングランドのリネカーらがバルセロナのユニフォームを着ている。とりわけ“ブロンド・エンジェル(金髪の天使)”の愛称で知られる天才MFシュスターは、所属した1980年から1988年まで常にチームの中心としてタイトル獲得に貢献し、1980年代のバルセロナを象徴する選手であったといえるだろう。
 一方、1982年にアルゼンチンの名門ボカ・ジュニオルスから鳴り物入りで加入したマラドーナは、スーパープレーを披露することもあったが、大怪我などもあり実力ほどの活躍を見せないまま1984年にイタリアのナポリへと去っている。

 1990年代前半はクライフが今度は監督としてバルセロナを訪れ多くの栄光をもたらした「ドリームチーム」の時代で、ロナルド・クーマン、ミカエル・ラウドルップ、ストイチコフ、ロマーリオらの世界的なスター選手たち、グアルディオラ、アモール、フェレールなどの地元カンテラ出身選手たち、バケーロ、ベギリスタイン、ゴイコエチェア、サリナス、スビサレッタといった才能豊かなバスク出身選手たち、の三者が上手く融合し、この上なく美しいハーモニーを奏でた。
 国内ではレアル・マドリードに次ぐ優勝回数、UEFAカップの前身であるフェアーズカップや欧州カップウィナーズカップでも優勝を何度も経験していたバルセロナだが、欧州最高峰の大会とされる欧州CCに関しては巡り合わせが悪く、クバラとスアレスを擁した時には「ベルナの悲劇」、シュスターの時代には「セビージャの悲劇」で、共に決勝戦での負けが続いていた。しかし、クライフ監督率いるドリーム・バルサの時代には、とうとう念願の欧州CCのタイトルも獲得している。

 就任した1988-1989に欧州カップウィナーズカップを制し、翌シーズンに国内カップのタイトルを獲ると、1990-1991から1993-1994まで国内リーグ4連覇を遂げたクライフのドリームチーム。誰もが息を呑むスペクタクルなサッカーを展開し、1991-1992シーズンにはクラブ史上初の欧州CC優勝まで果たし、至福の時間をサポーターたちと分かち合った。
 試合内容もさることながら、91-92(2位はレアル・マドリード)、92-93(2位はレアル・マドリード)、93-94(2位はデポルティーボ)が、全て最終節での逆転優勝だったという事実には驚くほかない。強く、美しく、印象的で、奇跡的なチームだったということ。
 ブラジルの天才ロマーリオが加入した93-94シーズンには、カンプ・ノウのレアル・マドリード戦で5-0(ロマーリオはハットトリック)のスコアを叩き出し、最終節にセビージャを5-2(このときもロマーリオがハットトリック)で破り、逆転優勝を決めたのだった。遠地ギリシャで大敗を喫した欧州CL決勝ACミラン戦の日程が、そのリーガ最終節の数日後であったというのだけは今でも悔やまれることだろう。

 見事に国内リーグ4連覇を果たしたクライフのドリームチームだが、歯車が狂い出すと早いもので、1994-1995に入ると一気に下降線を描き出す。シーズン前の段階でミカエル・ラウドルップ、サリナス、スビサレッタらを放出し、シーズン途中にエースのロマーリオも失うと、最終的にバルセロナは4位まで順位を落とす。と同時にクライフ政権7季目にして初の無冠となった。シーズン後にはクーマン、ストイチコフ、ベギリスタインらも退団し、完全に一つのサイクルが終焉することとなる。翌1995-1996、すでにヌニェス会長と対立していたこともあり、シーズン終了を待たずしてクライフは電撃更迭され、これをもってドリームチームは完全に消滅したのだった。

 1996-1997シーズン前、イングランドの名将ボビー・ロブソンがクライフの後釜として招聘され、目玉選手としては若き怪物ロナウドが加入した。そして、ロブソン監督は国内スーパーカップ優勝、国内リーグ2位(優勝したレアル・マドリードに勝ち点2差)、欧州カップウィナーズカップ優勝、国内カップ優勝という好成績を残し、ロナウドは34得点を挙げ国内リーグ得点王に輝いた。
 しかし、ドリームチームを忘れられないサポーターたちはロブソンのカウンター・サッカーを認めず、結局はその1年で更迭となっている。岐宿もロブソン・サッカーの中心であったロナウドも、違う理由でバルサを去ることとなった。鮮烈な活躍により彼の移籍金は高騰し、チームは引き止めることができなかったようだ。ちなみに、このシーズンにレアル・マドリードからバルセロナへ移籍してきたスペイン代表ルイス・エンリケは、質の高いプレーと抜群の闘争心から多くのファンに愛され、2004年の現役引退までクラブに長くとどまっている。

 偉大なるドリームチームの崩壊以後、選手の出入りも激しく、なかなか方向性を見出せないバルセロナであったが、1997年にそういった流れを変える出来事が起こる。新しいオランダ人監督ルイス・ファンハールの就任と、新しいブラジル人選手リバウドの加入である。
 オランダのアヤックスを率いて国内リーグ優勝5回、欧州CL優勝1回、UEFA杯優勝1回という物凄い実績を引っさげ登場した欧州屈指の名将に、当時のバルセロナサポーターは大きな期待を抱いたに違いない。アヤックス時代のファンハールは若い選手たちを中心にチームを機能させ、攻撃的なサッカーを実践していた。それに、アヤックスから来たオランダ人という文句が人々の心をくすぐったに違いない。ところが、ことは必ずしも上手くは運ばなかった。

 ファンハールが率いた1997-1998~1999-2000シーズンのバルセロナは、リバウドの活躍もあり国内リーグ優勝2回、国内カップ優勝1回という立派な成績を挙げる。しかし結果以上に問題が絶えず、ファンハールによる“リバウドの左サイド起用”や“チームのオランダ化”は、メディア及びサポーターから大きなバッシングを受け続けた。
 とりわけオランダ化は顕著で、実際にファンハール時代の3年間でバルサに加入した選手のほとんどがオランダ人(ヘスプ、ボハルデ、ライジハー、クライフェルト、ゼンデン、コクー、デブール兄弟)、もしくはアヤックス出身選手(リトマネン)といった具合。逆にデ・ラ・ペーニャ、アモール、フェレール、セラーデス、ロジェールら多くのカンテラ出身選手が放出されている。
 オランダ人選手の中でファンの信頼を完全に勝ち得たといえるのはコクーのみであろう。堅実で万能な選手であるコクーは主力として長くチームに在籍し、キャリアの後半ではキャプテンマークを巻くことさえあった。外国人選手のクラブ史上最多出場記録も樹立している。

 首脳陣の対立やオランダ化などFCバルセロナの周辺は次第に騒音ばかりが目立つようになり、1999-2000シーズンが無冠に終わると、ヌニェス会長、ファンハール監督共々クラブを去った。後任の会長にはヌニェス時代に副会長を務めていたガスパールが就任したが、状況は悪くなる一方で、クラブは完全崩壊へと向かっていく。
 それを象徴するかのような出来事がこの2000年に起きた。まだ記憶に新しい、ルイス・フィーゴのレアル・マドリード移籍である。1995年からバルセロナに在籍し、ファンからの信頼も厚かったこの優れたポルトガル人フットボーラーの移籍は、一時的な衝撃を与えるにとどまらない。2000-2001シーズン、フィーゴを得たマドリードは国内リーグを制し、以後も低迷するバルセロナを横目にタイトルを獲り続けていくこととなる。

 2001年には再びバルセロナサポーターにショックを与える出来事があった。長くチームを引っ張ってきたキャプテンのグアルディオラが退団を表明したのだ。フィーゴの移籍はサポーターの心に憎しみを生んだが、グアルディオラの場合は、ただただ悲しみを残すだけであった。続いて2002年には、入団以後ずっとチームのエースであり王様だったブラジル代表の10番リバウドが退団を発表し、2002-2003は散々なものとなる。ガスパール会長はシーズン途中に辞任し、クラブは6位という1987-1988以来最低となる成績でシーズンを終えた。
 ちなみに、カンプ・ノウのボール・ボーイからスタートし1990年に18歳でトップチームへ昇格、以後、2001年まで不動のレギュラーとして活躍し続けキャプテンも務めたクラブ生え抜きのアイドルであるグアルディオラは、激動の1990年代全体のバルセロナを代表する選手であったといえるだろう。一方、1997年に加入以降、圧倒的な個人能力を発揮し続け、FIFA年間最優秀選手もバロン・ドールも受賞したリバウドのほうは、1990年代後半のリーガ・エスパニョーラで最高の選手に位置付けられる。

 慢性化した危機を乗り越える光が見え出したのが、2003-2004シーズン前のこと。ラポルタ新会長就任と、彼が連れてきた新しいブラジル人スター選手ロナウジーニョ入団である。
 このシーズンも序盤は失速し、早くも新監督であるライカールトの更迭が噂されたりもしたが、後半戦に奇跡的な快進撃を遂げ、最終的には国内リーグの2位まで這い上がることに成功した。タイトルまでは届かなかったが、何より説得力を持っていたのはロナウジーニョを中心としたサッカーの内容である。それがサポーターの心に期待を持たせ、カンプ・ノウは再び活気を取り戻し始めたのだろう。

 そして迎えたラポルタ体制2年目にあたる昨季、青年監督ライカールト、キャプテンのプジョル、唯一無二の存在ロナウジーニョ、新加入のスター選手エトーやデコらに率いられた若さ溢れるバルセロナは、前年以上に魅力的なサッカーを披露し、6年ぶりとなる国内リーグ優勝を飾った。
 2005-2006シーズン前には、主力の放出もなく、PSVのオランダ代表ファン・ボメルやアスレティック・ビルバオのエスケーロといった有力選手を補強。長期離脱していた怪我人の復帰や新たな才能メッシーの出現など、明るい話題が絶えない。